いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

釣られた人は、釣られなかった人の受け取れなかった意味を受け取っている

昨日に引き続き今日もテレビネタでいこうかと思っていたのだけれど、たまたま読んだホットエントリーに惹かれて急遽、話題変更。

WEB系のITベンチャーに入って、はてなブックマーク・ダイアリー、そしてtwitterに出入りするようになった。

2chmixiとまともな仲間が見つけられなかったから、はてなtwitterに行けばすごい奴がいるだろうと思っていた。

しかし、その目論見は甘かった。はてなブックマークに来てやっとWEBエンジニアという集団が見えてきたけど、実態は全然ぬるい連中だった。

……
はてなユーザーと話していてもつまらない。 - キングダムぶろぐ はてなユーザーと話していてもつまらない。 - キングダムぶろぐ

こういう文章ではじまるHKBさんの記事。内容を要約すると、はてなに期待して始めたものの、実際なかで繰り広げられているのは内輪ウケを狙ったくだらないやり取りにすぎず、ばけの皮を剥がせば皆自分の意見をもたないただのコピペ人間であることがわかり失望している、というもの。

僕自身はIT系だからこのはてなを選んだわけではないし、なんらかのオフ会に出たこともないので、実感として「はてなの人」という類型でくくられる人たちがおもしろいのかつまらないのかはわからないのだけれど、この本文を読み終えた際に「こう考える人も中にはいるのか〜」と感慨にふけっていた。それから、ブクマを読もうとする前に、たまたま目に入ったkorpさんという人のコメントで知った。

大学に入ってオタクサークルに出入りするようになった。

中学・高校とまともな仲間が見つけられなかったから東京の大学に行けばすごい奴がいるだろうと思っていた。

しかし、その目論見は甘かった。東京に来てやっとオタクという集団が見えてきたけど、実態は全然ぬるい連中だった。


……
オタクと話していてもつまらない。 オタクと話していてもつまらない。

俗に言うテンプレというやつ。上記の記事はこれの改編版のわけだ。
これは今さら珍しがることでもとりあげることでもない、一時期(今もか?)増田界隈で流行ったという釣り行為なのだけれど、今回は話題が割とはてな住民にとって自己言及的な部類のそれであっただけに、普段よりも若干温度が高めでかつ、意外と騙されている人が多いために、僕としてはすごく興味深く感じられた。


ここで考えてみたいのは、一般的に釣り行為と呼ばれているものに、気づいた人(釣られなかった人)、気づかなかった人(釣られしまった人)、どちらの側に「真理」があるのか、ということだ。

例えばマジレス、マジブコメをする前に僕のように気づけた人は、どちらかと言えば安堵したかのようなブコメを残しているのが多い。ここでの安堵とは何に対する安堵なのか。それはおそらく、本文が実は書き手によって増田の文章を巧みにテンプレ化された「罠」であり、それに真面目な反応をとりそうになった危機から、なんとか脱したということへの安堵だろう。


そしてその安堵こそが、釣られた人に対する釣られなかった人(元ネタに気づいた人)の優位性を生む源泉となる。


しかし僕が思うに、このエントリーを読んで何かを失った人がいるとすればそれは、釣られた人(だまされた人)ではなく、釣られなかった人の方なのではないか。そしてその失ったものとは、この文章との「転移関係」だ。

以下は、精神科医斎藤環オンライン小説を論じた際の一節。

精神分析によるなら、手紙はたとえ誤配されたとしても、それがなんらかの効果や行動をもたらす限りにおいて、事後的に「正しい宛先」に届いたと言い得る。その意味から言えば、宛名があろうとなかろうと、あらゆる手紙は宛先のない投瓶通信にほかならず、それゆえ手紙が宛先に届く可能性は、常に保障されることになる。


斎藤環『文学の断層』pp.105-106

ネット上に晒される各ブログの各記事とは、読む人を限定しないという意味でまさに「宛先のない投瓶通信」と考えて差し支えないだろう。
ホッテントリに入ったかの記事をたまたま見つけ、たまたま読んだその人は、その人固有の読みにおいて自己のはてなに対する、普段は気づきもしなかった思いを表出させ、そこに書かれてあることがまさに自分宛に届いていたものだと錯覚する。ある人は落ち込み、ある人は腹を立て、ある人は冷笑する。しかし総じていえることはそこで、分析家が分析主体にとっての自分の何もかもを「知っていると想定される主体」と化すという事態と同じ意味において、文章と読み手の「転移関係」が構築された、ということなのではないか。そして――これも分析家―分析主体の関係同様――そこにこそ、なんらかのその読み手固有の「真理」が想像されるとは、考えられないだろうか。


では反対に、転移関係を取り結べなかった側、つまり釣りであることを見抜いた人はどうだろう。
先に書いたような、典型的な「安堵ブコメ」を引用してみよう。

あぶねぇな。うかつなコメントを残すところだった。

しかしよく考えてみれば、たとえこの記事に釣られてマジなコメントを残そうとも、一時の赤っ恥にすぎない。誰かに罰せられるでもない。釣られなかったことの意味とは、言ってみればその読者の自尊心の面目が保たれた、それぐらいのことだろう。ホントは全然「あぶねぇ」ことなんてないのだ。


問題はその釣り針に気付く以後においては、その文章の伝える内容それ自体がすべて、ネタ的な形式であるが故に吟味されなくなる、ということだ。
確かに元ネタとなっている記事と照合すると固有名以外は瓜二つだし、このHKBさんの前後の記事を読むに切ったりはったりするネタ的雰囲気の強いブログのため、おそらくはその人の読みは当たっているのだろう。しかし、だからといって安心できないのは、そのようなコピペ&ペーストしたネタ文が、実はHKBさんの思っている本心かはそうではないのかまでは、誰にもわからないわけだ。


日本のネットカルチャー(と大きくくくってもいいかな?)におけるアイロニーゲーム、ここに極まれりと思えるものは、まさにこの点にこそある。書かれてあるベタな内容に対する、パーフォーマティブに示されたネタ的な真相の、そのあまりの優位性。わかりやすく言えば、別に書かれてあることが釣りであろうとなかろうと、何かしらその文章の内容に対して思うところがあるのであればそれはそれでいいはずだと僕個人としては思うのだけれど、にも関わらず、ことにネット空間において、いったんそれがテンプレの存在するネタであることが暴露されれば、文章と読者をつなぐいわば転移関係というのは、そこでぷつんと途切れてしまうのだ。元記事のあるパロディ、つまりネタがあることを知ってしまえば、それ以上その文章にはベタな態度は取れない。相手をよりいかにアイロニカルになれるか。これはそういうゲームなのだから。


話を戻すと、ここでいう「真理」とはお察しの通り、客観的なものではない。近い将来、ネットに転がった「言論」とはこのようにテンプレート化した形式をちょちょいっといじったものが、コンピュータによって自動生成されていくことになるのかもしれない。それを僕らは受動的に読んでいくのだ。ジジェクの著作に幾度となく出くわすことになる、あの勝手に経文を唱えてくれることになるチベットマニ車のように。