いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

はてなブックマークが論壇かどうかは、まずはてなブックマークが憧れの対象かどうかを議論しないとだめだろう


http://togetter.com/li/9907
ここ数日、元はてな社員という人の発言に端を発する「はてなブックマークは論壇か?」という話題が小盛り上がりを見せている。


こういう自己言及的な問いに考えをめぐらせるのは、知的ブレークスルーをとげるために大変有意義な手段だと思う。なぜならそれは、普段は無意識的にカッコに入れている「自分」という謎のそのカッコを取り外す営みだからだ。

「人間ってなんだろう」「俺ってなんだろう」「死ぬとどうなるんだろう」というと、夜中に変なポエムをつづっちゃう思春期といった感じだが、裏を返せばそれだけその時期に多くの人が自分の世界観の変化を味わうということなのだろう。
それに若い頃の自己言及のほうが、40すぎの窓際係長が突然自分という問いのカッコをはずし、妻子を置いて勝手にインドに飛んでいってしまわれるよりも、全然世のため人のためである。

ただそれがインフレを起こしてしまうと人間でも作品でもうざくなるのであって、適度な自己言及的問いは、定期的にあってもいいと思う。


それはともかく、「はてなブックマークは論壇か」、だ。
議論になっているという場面をみれば論壇だといえるし、大多数が匿名で参加しているという点では論壇じゃないだろという話になる。だが現実社会への影響力がまだ皆無に等しいという意味では、本家の論壇とて同様で結局は日本社会は政治によって決まってきたわけだ。


というわけで、こういうのはここが似てる、ここは似てないとあげつらっていっても意味がない。


ここで、論壇という単なる熟語ではなく、人が会話や文書中で使う際の「論壇」に含意されたものを腑分けしてみたい。するとそれは機能としての論壇と、憧れの対象としての「論壇」だと思うのだ。


機能としての論壇は字義通り、「意見を述べるための壇」や「議論をたたかわせる場所」(コトバンクより)なのだろう。
しかし論壇が「論壇」として問題にされるとき忘れてはならないのは、そこで戦わされる各々の主義主張や議論のレベル云々よりもまず、そこに集うのが知的階級の「スター」たちであるという前提だ。彼ら知的スターたちが名を連ね喧々諤々と何かについて議論している眩しい誌面を、読者はうわぁ…と思いながらめくる。ときに若手の投稿論文なんかがぽんと載っちゃったりしていて、急いでプロフィールを確認して自分と同世代だったりしたら、ふつふつと嫉妬心をたぎらせる…。このとき論壇が憧れの対象としての「論壇」へと変貌する。
議論が目的なんだから内容が肝心だろ、という批判もあるかもしれない。しかし重要なことは、その議論に多くの人の眼をむけ、かつ、自分もかくありたいと思わせる求心力なのだ。いってみればそれも「機能」かもしれないが、人の欲望の部分に作用する機能だ。


人が「論壇」が口にされるとき、そこには無意識的に憧れの対象、自分もほめてもらいたい存在としてのそれが含意されている。それは「論壇」を批判する構えの人も同様だ。なぜならそれは、憧れという感情の反転した形なのだから。


というわけで、いくら機能的にはてなブックマークが論壇かどうかを議論しても、意味がない。現時点での状況を言い表せば、はてなブックマークは論壇的な機能を持ってはいるが、ただ人から「論壇」だとは見なされていない」、ということになるだろうか。


では名実ともに「論壇」だと見なされるにはどうすればいいか。困ったことにそれは憧れの対象になるということなのだけれど、いわずもがな、自分から憧れの対象になりたいと切望することほど、憧れの対象に遠いものもないわけである。