いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「反規制」の他にもまだやるべきことが残っているんじゃないだろうか


東京都が提出した「青少年の健全な育成に関する条例」の改正案について、ここ数日ネット上でも議論が慌ただしくなっている。何がエロいか、猥褻かというのは客観的な線が引けるわけではなく、それはあくまで恣意的なのだけれど、恣意的であるがゆえに「ここまでダメにしようぜ」とぐいぐい規制の領域を拡大されてしまう危険性がある。


しかしこの手の規制は、とりわけ今回のような猥褻表現に対する規制ははっきりいって不毛だ。というのも、これは前回「言葉狩り」についても書いたことだが、セクシュアリティというのは名指すことができない不定形のものであり、仮にむりやり定義を構築して囲ったところで、そこからにじみ出た「猥褻でないはずの要素」が、また猥褻な様態を帯びていく。だからきりがないのだ。


それはともかく、今回はもうすこし違った観点からこのことについて書き加えたい。というのも、心情的には僕はなんでもかんでもエロはダメというPTAおじさんおばさん的な都議の姿勢よりは、いくらか反規制の側に与しているのだけれど、それでもこのエロマンガやエロゲ規制についての議論にはいつも、ある違和を感じざるを得ないからだ。


この件に関して、今日も漫画家や出版関係者が意見表明をしていたことがニュースで報じられていた。今回だけではない。この手の規制ののろしが上がると、まずは漫画家やそれの擁護者、ファンたちは「反規制」の姿勢でことに臨む。


もちろん、その行動が必要でないわけではない。なんでもかんでも規制され、ある部類のマンガが売ることができなくなれば、今までそれで飯を食っている人達が生活できなくなる。そのため、短期的には過度な規制には反対運動を起こして抑制することも必要だ。


しかしもう一つ、長期的な展望をすれば、“また別の行動”を起こす向きがあってもいいはずなのにも関わらず、それが起こっていない(もしくは起こっている気配があまりしない)ことが、僕にとっては不思議なのだ。


その長期的な展望からの別の行動とはずばり、「規制されない新しい猥褻表現を作る」という行動だ。


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これには、活字に前例がある。官能小説だ。
官能小説も、戦後に猥褻表現についてお上から厳しく規制された経験を持つ。例えば裁判事例として有名になった『チャタレイ夫人の恋人』など、今では表現的にどこがまずいのか皆目わからないような作品だが、当時はこれが猥褻だとされ、規制の対象として摘発された。ちなみにこのときも当時の名だたる作家たちが、裁判で弁護側に立ったという。


そのように、猥雑さというのは個々人の主観であり恣意的な事柄なのだが、恣意的であるがゆえに規制する側もそれを恣意的にいかようにも定義し処罰することができるという危うさがあるのは、今回の件とも同じだ。


しかし、80年代以前までの規制が厳しい状況下に生まれてきた表現が、規制が緩くなっていく80年代以降も官能小説の世界にて豊穣な表現手段としてもてはやされたのは、周知の話だ。

奇しくも最近出た永田守弘『教養としての官能小説案内』でも、表現規制によって官能小説が苦境を強いられた時代について割いた章の最後は、こう締めくくっている。

だが、こうした時代的な制約が長く残ったために、官能小説家たちは、それに適応する必要に迫られた。そのため、官能表現は、暗喩やオノマトペを多用するなど、いやおうなく抑制された隠微さを追求していくことにもなり、それがかえって豊潤な多様性への模索につながったのである


50p ※太字原文ママ


だからといって規制をバンバンしろ、というわけではない。おそらく当時の作家たちも、その規制によって執筆には不自由したはずである。はずなのだが、そのような規制の網をかいくぐり、淘汰されながら研ぎ澄まされながら進化していったプロセスこそが、結果として官能小説における豊穣な官能表現の数々の現在に至る歴史だったいっても、過言ではないのではないだろうか。


そして今ではどうなったか。おそらく多くの官能小説読者にとっては、無味乾燥とした「ペニス」や「ヴァギナ」という学術的な名称よりも、「秘肉」や「蜜壺」、「肉棒」と言った単語のほうが、どうしようもなく隠微で、汁もしたたるほどエロティックなインスピレーションを沸き立たせる装置と化してしまっている。
言わずもがなだが、蜜壺は元来「蜜の入った壺」という意味しかなかっただろうし、そもそもそんな単語自体なかったはず。肉棒にしても、戦前の人なら敵性語だからソーセージが言い換えられたものなのかと勘違いしてしまいそうだ。本来はそこに猥褻さは、みじんもないのだ。


それらは、官能小説家という表現者たちが作中で地道に使いつづけ、猥褻さを想起させる表現として育て上げていったのだ。歴史にたらればは禁物だが、もし規制という外圧が全くかかっていなかったとすれば、これら隠微な表現が生み出されていた可能性は低かっただろう。


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翻ってみてマンガなどの視覚表現に話を戻すと、それは文字表現の特有の話であってエロマンガやエロげーにそれは応用できない、ということでもない。
というのも、マンガも実は象徴ではなく記号であると考えられるからだ。記号と象徴は似ているようでちがう。象徴と記号の違いについて端的に説明した次の文章を引用する。

「象徴」と「記号」は似ているようで別のものです。というのは、「象徴」は、それが指示するものと、どんなにわずかであれ、何らかの現実的な連想で結ばれているからです。(…)象徴は「何でもいい」というわけにはいかないのです。
一方、トイレのドアに書いてある「紳士用」という文字、これこそが「記号」です。この文字と、「男性はここで排泄を行う」という生活習慣の間には、「人為的な取り決め」以外のいかなる自然的結びつきも存在しないからです。
(…)
例えば、将棋をさしていて、歩が一個見当たらなくなったときに、「じゃ、これ歩ね」と言って蜜柑の皮をちぎってその切れはしを将棋盤に置いても、対局者二人がその「取り決め」に合意してさえいれば、将棋のゲームは遅滞なく進行します


内田樹『寝ながら学べる構造主義』pp114-115

つまり、記号とはある共同体内限定で合意された「意味するもの」と「意味されるもの」との恣意的な結びつきにすぎないわけだ。


そしてマンガも、手塚治虫の「マンガ記号説」以来、記号だと解釈されてきた歴史がある。「漫符」を例に取るとわかりやすい。怒りの表現として頻繁に使用されるあのツムラのマークのような青筋も、さくらももこの描く額から垂れる直線も、当たり前ながら現実には存在しない。けどそれらが作中で使われていると、われわれマンガ読者はそれがキャラクターのいったいどのような感情を言い表しているか、即座にかつ的確に判断することができる。それらはまさに、「人為的な取り決め」なのだ。


だからこうも言えないだろうか。記号の集積であるマンガによって描かれる猥褻表現という記号も、実は「猥褻な表現はこれである」という「人為的な取り決め」である、と。そしてもしそれが正しいのであれば、マンガにおける猥褻表現が、新たに「開発」できるということをも意味する。新しい猥褻表現、すなわち規制する側の決めた規制対象の範囲外にもかかわらず、それを読む者を欲情させることのできる、つまりオカズにすることのできる猥褻表現というものが存在するということは、論理的にはありえるのだ。


ちなみに断っておくと、これは「パンがなければケーキを食べたらいいのに」的な提案ではない。既存の猥褻表現がアウトになったから、少し猥褻度では落ちるがなんとか欲情できる低級のもので我慢しろ、ということを言っているのではない。
というのも、繰り返しになるが、記号という意味するものと意味されるものの関係は、あくまで恣意的だからだ。この「パンがなければケーキを食べたらいいのに」的な提案とはつまり、エロマンガ等の表現空間においてなにが「より猥褻か」という表現の「猥褻度」の秩序が決められていたならば成立するものなのであって、本来は全てが等価に記号であるはずのマンガ表現に、猥褻度という序列などないのだ。


と、ここまで大見得を切って論じてきたが、残念ながら僕自身にその「規制を免れる新しい猥褻表現」の代替案があるわけではない。僕に言えるのは、「新しいのを考えてみようよ!」という提案までだ。だから厳密に言えばそんな表現はまだ、世界に「存在しない」のだ。

しかし、「今の今まで存在し得なかったけれど、いったん表現として生まれてしまえば不可逆的にリアリティを帯びてしまう」という論理的なアクロバシーを達成できることこそが、表現という行為の本質的な用件の一つであり、そこにこそクリエイター(創造主)の真の「腕の見せ所」があるのだと、僕は思うわけだ。


だから、今回のように何らかの規制の動きが生じた際に、規制される側に属する漫画家や評論家たちが裁判所や議会へ向かうために家の玄関のドアを開ける、それもいいかもしれないが、同時に一定数の担い手は、そこで憤怒しながらも規制に反対するために外に出るのではなく、もう一度ペンを握り直し新しいエロ表現を開発してやろうじゃねーかとナニクソ根性をたぎらせてもいいのではないかと、僕は思うのだ(もちろんすでに水面下でそのような表現開発に切磋琢磨している作家がいたとすれば、大変申し訳ないが)。


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ネット論では近年、「アーキテクチャ」という言葉がキーワードとして流行っていた(今もか?)。ネットというアーキテクチャの中で芽生えた文化が、その設計者さえも思いも寄らぬ進化を遂げてきたのが今のネット文化だという話なのだけれど、そもそも文化一般が、あらかじめ仕切られていたアーキテクチャのなかで予想だにしない進化を遂げていくものだ。
今回の場合、この猥褻表現を規制する枠組みこそが新たにアップデートされた「アーキテクチャ」であり、その「アーキテクチャ」に寄生し、その内側から規制する側の立つ論理や前提やらを食い破るような、新しい猥褻表現を産み落とすことにエネルギーを注ぐ方が、単に反規制を唱えるだけよりももっとずっと、このエロマンガやエロゲの文化を「豊潤な多様性」へと導く有意義な試みのように、僕には思える。


もちろん、んなことできるわけねーよという反論はあるだろう。まず僕のこの議論は、「性はフィクションだ」という前提に立っている(そして僕自身そう思っている)。ここでまず議論を二分するだろうし、そもそも「マンガは記号じゃねーよ」という反論があれば、この話は前提からして成り立たないことになる。だが困ったことに、「マンガは記号」という説は、手塚以来多くのマンガ家やマンガ評論家が乗った議論であり、それが覆されると多くの議論が頓挫することになってしまうのだ。