いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

荒川区議会よりキャンパスナイターズのほうがある意味かなり進んでいる件

「公衆便所」は女性蔑視?

東京・荒川区で、なんとも珍妙な「トイレ論争」が勃発、関係者は大マジで激論を戦わせている。「公衆便所」の4文字が不潔なイメージだとして、呼称を「公衆トイレ」に変更する条例案が提出されたのが事の発端。紛糾する区議会では、アングラな女性蔑視用語が飛び出すトンデモ事態にまで発展している。
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「便所の“じょ”を女に変える隠語がある」の答弁が火に油注ぐ結果に


 想定外の追及の嵐に、シドロモドロとなってしまった区側。なんと「公衆便所は女性蔑視の差別用語でもある。便所の“じょ”を女に変える隠語がある」と、何ともそぐわないとしか言いようのない例まで挙げたものだから、火に油。さらなる紛糾を招く結果になってしまった。
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http://www.tokyo-sports.co.jp/hamidashi.php?hid=7355


以前読んだ谷崎潤一郎の『痴人の愛』にて、ヒロインのナオミが主人公の譲治に隠れてどんどん性的に乱れていき、ダンス仲間のKOボーイたちととにかく寝まくる。最終的にそのことは譲治にバレるのだが、彼が真相を知った際、自身ナオミと肌を重ねていたがだまされていた(彼女が未婚だと思わされていた)ある一青年から、自分たちがナオミを陰で人には到底口にできないようなある“あだ名”で呼んでいたと告白される。そのあだ名がなんなのかは本文中では明かされないのだけれど、註を見るとしっかりと”「公衆便所」と思われる”と書いてあった。

あの小説が大正時代を舞台にしていたから、実はこの隠語が意外と古い歴史をもつというのはわかるのだけれど、まあそれはどうでもいい。


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前置きが長くなったけれど、この際書いておきたいのは、言葉狩りを含む権力による性抑圧というものの根本的な不可能性である。

ジジェクはその卓越したフーコー論で次のように言っている。

誹謗、中傷発言やセクシャル・ハラスメントに該当する表現を、政治的正しさに照らして適切な言葉使いへ置き換えようとする試みについて考えてみよう。このような努力が足を取られる落とし穴とは、誰かを侮辱し、精神的な苦痛を与えるための表現方法と語意に、新機軸が登場したことを人々に告知してしまうことである


スラヴォイ・ジジェク『厄介な主体2』p22


引用した荒川区のニュースを目にした少なからぬ人が思っただろうし、現にBBSなどで指摘されているのだけれど、大正以降に世界大戦ももう一度経験したし、オイルショックノストラダムスも無事にやりすごした現代では、すでに「公衆便所」よりもっとエグい「肉便器」という言葉が開発されている。
もしかすると、「トイレに代えろ」派の人は、最初から「肉便器」でいくともう「それ知ってるおまえの“エロリテラシー”はどうなの?」的なつっこみを受けたときしらばっくれようがないという思惑から、妥当なところで手を打ったのが「公衆便女」だったのかもしれないが、それはどーでもよい。


ジジェクで言っていることをこの事例用に租借すると、要はトイレが新たな「ヤリマン」を指す隠語になる可能性が全くないわけではない以上、この施政ははっきり言って無意味、不毛ということになる。そもそも公衆便所が隠語となっていることに、便所=便女という語呂合わせ以上の妥当性があるわけではなく、含意された真意が隠れさえすればなんでもいいのだから、「公衆便所が隠語である」ということにこだわりを見せている人の方がむしろ怪しく思えてくる。
ひょっとすると公衆便所にこだわりを見せる「トイレに代えろ」派の人々は、公衆便所にものすごくエロティックな語意を付与していて、あまりのそのエロさに自制した勢いあまっての今回の議案提出なのかもしれない、というのは少し妄想が過ぎるだろうか?
ここまではわかりやすい。


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しかしジジェクは次のようにつづける。

事態はそれだけに留まらない。足をすくわれてしまうのは、むしろ、このようなコトバ選びの行為そのものが、悪魔のような弁証法的反転を起こすことで、政治的な正しさの理念を掲げて監視し、駆逐しようとしたはずの「不適切表現」の側に与しはじめてしまう局面なのだ(…)要するに、フーコーセクシュアリティに対して規律を賦課し、徹底管理しようとするディスクールについて説明するとき、彼の考慮の枠から漏れてしまっていることがらとは、権力のメカニズムそのものが、エロスをかき立てる道具に成り下がっていくプロセス、つまり、権力が「抑圧」使用と躍起になっている対象によって汚されてしまうプロセスなのである。


前掲書pp22−23


フーコーが」「枠から漏らしてしまっていることがら」なんだから、正確にはこれはジジェク本人の論なのであるが、まあそれはいい。

重要なのは、ここに世に言う言葉狩り」という行為のはらんだディレンマがあるということだ。言葉狩りは先に書いたとおり不毛な行為であるが、しかしそれだけに留まらない。むしろ言葉狩りによって、その狩りの対象となった言葉が、狩られる以前と比べものにならないほどに、妖しい魅惑を漂わせ始めるからだ。
例えば「放送禁止」というジャンルについて考えてみてほしい。今僕は「ジャンル」と書いたけれど、作品群を指し示す一ジャンルと呼べるほど、音楽映像に関わらず一部のカルト的ファンの目を釘付けにしているのが、「放送禁止」の現状だ。
ここで、今では「放送禁止」になってしまっている歌やドラマの一遍が、「もし放送禁止になっていなかったら…」という仮定に思いを巡らせてみよう。それらコンテンツは、「放送禁止」であるほど、魅惑的なものになっているだろうか。僕はそうはどう考えても思えない。もしそうならば、あれだけ必死に探した「セブンの欠番」の真相に落胆した僕の、その落胆の意味が説明できなくなる。


もし荒川区の「トイレに代えろ」派の意見が通ったとしたら…おめでとうございます。「公衆便所」はこれから、よりいっそうエロくなるでしょう。


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言葉狩り的なものは無意味だ。じゃあ卑猥な言葉はどうすりゃいいの?ということなのだけれど、そこから先のことは残念ながら、ジジェクは答えてくれていない(そんなのねぇ!!、ということなのかもしれないが)。

だもんで、ここからは僕自身の直感から、とりあえずの処方箋をつらつらと書きたい。僕の提案とは、押してダメなら引いてみろよろしく、言葉を「狩る」のではなく、むしろ「放牧」し十二分に「繁殖」させるというものだ。


今月惜しまれつつも最終回を迎えることが決定した深夜番組が、フジテレビの「キャンパスナイトスジ」、通称キャンナイだ。見ていて脳がシュワシュワといい感じに溶けていっているのが自分でもよくわかるこの番組中に、女子大生たちが歌う歌こそが、その名も「エロくないのにエロく聴こえる歌〜しこたまがんばれ!」というオープニングテーマだ。
「ちんすこう」や「しこたま」、「ベッドメイキング」「奇跡の生還」あるいは「マグロ二夜連続」。そのほかにも文字通り「全然エロくないのにエロく聞こえる」単語がちりばめられた、脈略もなにもないただそれだけの歌なのだけれど、当初僕は思いちがいをしていた。


夏の日に給食にでたアイスキャンデーをぺろぺろする隣の女子をじっと見ていた小学生だったほどの僕だから、最初これも、画面に映る美人女子大生たちの口にする「隠語未満な単語」の数々を、まず耳でとらえ、その次に各自脳内で勝手に編集なり加工なりして楽しめという、スタッフからの毎週のプレゼントだと思っていたのだ。


しかしだ。見始めてから気づいたのだけれど、これが全然エロくない。女子大生らの弛緩したパラパラ(?)、「全然エロくない」ならぬ「全然がんばってない」と思しき曲のメロディーやアレンジ、たまに見切れるハライチ岩井のあのこの世の終わりのような表情…。そしてなんといっても、「全然エロく聞こえないのにエロく聞こえる」単語は、単発ならともかくここまで連発連呼されたら、全然エロくもなんともないのだ。


ここにおいて、「全然エロくないのにエロくきこえる」をリピートし続けることで、実はやっぱり全然エロくない(もしくはなくなりつつある)のだという逆説が生まれる。


極端な話、シスターだから興奮するというやつだっている。そういう意味で、誘惑しているようで実は男を萎えさせる、キャンナイの「戦略」って、荒川区の議論より全然全くうんともすんとも、先を行っていたと思う。