いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

アーティストは「言葉」を残すために生きてるんじゃない

普段ぼくは、ブログで特定の人の批判をしたりはしない。ネガティブな長文を書くのも精神衛生上よくなさそうだし、気に食わない相手に時間を割く事自体がどこかバカバカしいと思えてしまう。それになにより、相手がネットで生計を立てている場合、批判記事を書いて広めることは結果的に相手に利することになるという、もっとも許し難い事態が起きてしまうのだ。
だから、今から書くこの記事は、釣られたぼくの負けだ!圧倒的な敗北なのだ!
表現でメシを食うということ—器用な妥協と比率の問題
この記事を全否定はしない。食うことの出来ない間は、本意でない活動をして食い凌がなければいけない。この記事はそんな当たり前のことを書いているのだ。

けれど、読んでいてなんとも胡散臭い文章だなーと思ったのは、実際にこの筆者が何を「アーティスト的」と述べているのか、筆者がどのようなものを「アーティスト的」だと感じているのか、まったくわからないところである。

僭越ながらワタクシの「アーティスト観」に照らし合わせてみても、この筆者のブログには「アーティスト的な部分」を20%どころか一滴たりとも感じることができない。


じゃあ、この筆者の言う「アーティスト的な部分」は、いったいどういうものなのか。
そのヒントはここに隠されていると思う。

サイト名は「ihayato.news」ではなく「ihayato.words」なんてタイトルに変えようと思っています。

おそらく、この筆者の表現方法とは「words」なのである。
けれどそれは、小説や詩なのではない。おそらく筆者にいわせれば、「ブログで好きなことを書くこと」こそが、「アーティスト的な創作活動」になるのだ。


では、そのような「アーティスト的な創作活動」の先にどのような需要があるのだろう。
ぼくがふと思いつくのは、『超訳ニーチェの言葉』やあいだみつをの詩のような需要だ。それが、筆者のいうところの「アーティスト的な部分」であり「表現」なんじゃないだろうか。本屋でいうと、「人生訓」や「自己啓発」の棚においてあるアレのたぐいだ。

人生訓や自己啓発本をバカにするべきではないかもしれない。
しかしだ、もしもニーチェが現代日本に転生して『超訳ニーチェの言葉』が書店で平積みになっているところを見たら、どう思うだろうか? 相田みつをが現代に生き返り、ラーメン屋の油まみれの壁に貼ってある自分の作品を見たらどう思うだろう。おそらく、おそらくであるが、恥ずかしすぎてソッコーでまた冥府に戻るんじゃないだろうか。


注意したいのは、ここで恥ずかしいのは本人たちの方ではない。そうではなく、表現した本人たちの全くあずかり知らないところで、全くあずかり知らない仕方(誤訳、誤解などを含め)で、「言葉」をありがたがられて需要される風景が、恥ずかしいといっているのだ。

けれどこのブログの筆者はちがう。彼にしてみれば、ありがたがられる「words」を吐くことこそが、「アーティスト的な創作活動」なのである。


ここまで書いてきたことは、あくまでもぼくの推測にすぎない。
筆者には一刻もはやく“年収150万円“の生活を抜け出し、「アーティスト的な創作活動」に専念してもらい、そのアーティスト観を知らしめてもらいたいものである。