いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

非常に"日本的な"自民の憲法改正案

自民党憲法改正案の話題が未だに尾を引いています。ぼくのTwitterFacebookでも、ふだん政治的な話題を持ち出さない人まで巻き込んでいることが、その注目度の高さを物語っています。

ざっくりおさらいしておきますと、自民の改正案で「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に差し替えられていることが、主な議論になっています。

そもそも従来の「公共の福祉」とこの「公益及び公の秩序」の何がちがうのか? という話ですが、「公共の福祉」とはつまり、人権と人権がぶつかった時には調整が入りますよ、という制限を定めているわけです。(当たり前ですが)人権は平等で、他の人権は人権とて侵害できない、と。だから「公共の福祉」はいわば人権の内部にある制限だといえるでしょう。

当初「公共の福祉」には、人権の外部にあるという制約外在説がありましたが、今では全く支持されていません。
一方今回持ち上がった「公益及び公の秩序」はおそらく、人権をその外にある制約によって制限しようという、「公共の福祉」でいうところの「制約外在説」の立場に位置づけることができそうです。
憲法とは本来、非常に弱い立場の国民のために国が守らなければいけない約束事を決めたものであるはずです。けれど、「公益及び公の秩序」が人権の外部にある制約であるとすれば、その使いようによってはそうでなくなってしまう可能性がある。そこが主に問題になっていると思います。要は、人権への制約が人権の内にあるのか外にあるのか、なわけです。

これを受けて、保守派である自民がさらに右寄りに……ということがいえることはいえますが、ぼくはそれ以上に、このような改正案が出てくることに、日本人的な"らしさ"があるんじゃないかとも思えてしまうのです。


日本人は、人と真っ向からぶつかることが極端に苦手です。
人と意見が異なる時も、できることなら波風を立たせず自分の知らないところで「空気」や「雰囲気」「ノリ」によって、物事が決まっておいてほしい。安易な日本人論は避けたいところですが、傾向としてこれは事実でしょう。
自分で異論の声を上げるのなんて億劫だから、もしも自分の外部にある「公の秩序」と言う名の「空気」が、「ノリ」が、自分の知らないところで勝手に物事を(もちろん自分の都合のいい方向で)解決していてくれたなら……。
皮肉なことに、自民党憲法改正案は、そうした日本人の、非常に日本人的な"弱さ"と、そこから出てくる"願望"をよりいっそう反映しているように思えてならないのです。