いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

それは作り手側だけの問題なのだろうか

『めちゃイケ』に限らず、ある世代のお笑い芸人は「権威を傘にしたいじめ」を肯定している - 昨日の風はどんなのだっけ?


id:toroneiさんのテレビバラエティに対する並々ならぬ思いが伝わるのだけれど、すこし腑に落ちない点が。


端的にいうと、この記事では「視聴者の変質」という関数が抜け落ちてやしないだろうか。
toroneiさんはひょうきん族とんねるずらとそれ以降との間に分水嶺があるように書かれているのだけれど、果たして本当にそうなのだろうか。テレビ画面上ではそう見えるのかもしれないけれど、はたして真相/深層においてはどうだろうか。

とんねるずの2人は、学生時代の部室のノリを無理矢理テレビに持ち込んだのではなく、業界そのものを自分たちにとって居心地のいい「部室」にしてしまったのだ。


 彼らがデビューした1980年当時、芸能界におけるお笑い芸人の地位はきわめて低かった。とんねるずの2人は、そんなみすぼらしい"お笑い"という枠の中で、ちまちました覇権争いをするつもりはなかった。彼らはただ、スターになりたかった。


 彼らは、自分たちが立場の弱い芸人であるということを逆手に取って、芸能界そのものに対してテロを敢行したのだ。共演者や観客に素朴な感情をむき出しにして、好き放題に暴れ回る。そして、身のまわりにいるスタッフをさんざんネタにして、視聴率やギャラに関する芸能界の生々しいタブーを公然と口にする。


 そんな彼らは、テレビを見ていた普通の若者たちを味方に付けた。友達同士、部室でふざける感覚で、歌番組に出てはしゃぎ回る。学校の先生の悪口を言う感覚で、テレビ局員やマネジャーに対する不平不満をぶつける。芸を見せるのではなく、生き様を見せていったことで、とんねるずは同世代の視聴者の熱狂的な支持を得て、お笑いの枠を超えた稀代のエンターテイナーとなったのだ。


お笑いコラム【この芸人を見よ!55】とんねるず 暴れ放題で天下を取った「学生ノリと楽屋オチの帝王学」 - ライブドアニュース

これはつい先日あがった記事。きわめて一般的なとんねるず解釈ではないだろうか。僕も彼らが売れたメカニズムというのは、たぶんこのようなものなのだろうなと、なんとなく合点がいく。ひょうきんディレクターズなど、「作り手の存在」をあえて表面化させたひょうきん族にも、これと同様のことがいえるだろう。

彼ら以降、テレビを作る側のみならず視る側も、作り手側、業界人側からの視点で「内輪ウケ」に興じるという感覚のお笑いリテラシーを手に入れたのだ。この記事でいうところの「部室」とは、toroneiさんが「学校の教室」として現行のバラエティ番組を非難するときに使う「教室」と、ほぼ同等だといえるだろう。


さあ、そんなとんねるず以降の業界を知り尽くした(気になっている)視聴者、表層だけでなく「裏側」をも込みで笑うことを覚えた視聴者がはたして、今さらドリフ的なお笑い、例えばいかりや長介ら相対的に立場の上の人たちが最後には逆襲されるというだけの構図の番組で、笑うことができるだろうか。「どうせそれはコントの中だけの話だ」とか、「終わったらどうせまた元の立場は戻るんだ」とか、「本当は彼らの間にさしたる上下関係もないはずだ」とか、はたまた「結局は長さんが一番「おいしかった」のではないか」という意見も出てくるだろう。つまりそこには「裏読み」の介在が、避けられないのである。
にも関わらず、そのようにコントにおいてだけで上下を逆転させたオチを、今や「白々しい」とさえ視聴者は思うのではないか。それこそ「大学の先生で教育評論家みたいなことやってる人」に褒められてしまうような勧善懲悪的なお笑いを、今さら僕らが笑えるのだろうか。


「知る」というのは不可逆性をともなう行為だ。もう知ってしまったからにはしょうがない。退歩はない。新たな「内輪ウケ」というリテラシーを手に入れた視聴者は、もう「知る前」には引き返せないのだ。そんな中、視聴者の間で加速度的に進行するのは、既存のリテラシーをさらに発展させようという流れであるというのは、想像に難くない。そしてその裏読みに裏読みを重ねていった先にある番組こそが、今の「めちゃイケ」や「アメトーーク」だったりする。


つまり僕が言いたいのは、かのエントリーで取り沙汰されている現行のバラエティの問題(僕自身はそもそも問題とは思っていないのだけれど)の根っこの部分を取り出してみるとそこには、むしろ「視聴者の変質」というとんねるずひょうきん族の時代に始まった事情があり、それ以降の(一部の人にとっては)陰湿に見えるいじめ的な関係は、この内輪ウケ的なバラエティの受容形態の先鋭化にすぎないのではないか、ということだ。


僕は個人的に、テレビとは視聴者の欲望を映すものだと思っている。「内輪ウケ」のリテラシーを加速させた視聴者に対しては、作る側もそのリテラシーを満足させるものを作らなければならない。それは、作る側だけによる一方的なものではなくむしろ、作る側と視る側双方によって駆動するもっとインタラクティブなダイナミズムなのではないだろうか。
そう考えると、toroneiさんがかの記事において、「めちゃイケ」以降の世代を「弱い者の方に立ってなくてはいけない、というような基礎教養が根本的に欠けている」と、彼らの個人的な教養の問題として片づけてしまっているのを読むと、それはそれであんまりではないかと思ってしまうのである。


それと、これはtoroneiさんの抱える問題意識と重なるのかもしれないけれど、このバラエティの「いじめの構造」問題の根本的な原因は、「フリートークのコント化」にこそあるのではないだろうか。これは先日、とある大学の後輩君とジョナサンで深夜から早朝まで9時間粘ったとき(迷惑な話だ…)に意見が一致したことなのだけれど、最近は「面白くない」とあらかじめ「設定」された芸人ほど、その人のトークを聞く側のハードルが上がってしまう、という事態が起きている。


アメトーークなど視ていてもそうだ。最初に比較的「面白い」とされている芸人に話が振られていき、そこで笑いが起こる。そして最終的には、たむけんや出川哲朗という一般的にはトークの「面白くない」とされている芸人のする話がすべってオチがつく、という形式。これ自体がすでに本来は“自由”のはずの「フリートーク」のパロディーでしかない。
それは先輩/後輩で決まる体育会系縦社会の問題ではない。一度「面白くない」という烙印が押された芸人は、そんじょそこらの努力ではなかなか「面白い」に這い上がれない。そこにこそ問題があると思うのだ。


しかしその反面、その烙印の起源を辿れば、その芸人がテレビのバラエティ空間に参入する際に、トークが「できる/できない」という二分法において「できる」というほうに入れなかったことにこそ原因があるともいえる(途中で激変するタイプの人もいる。例えばふかわりょうとか)。


だから、今のテレビの硬直した「フリートーク」(あえて括弧書き)の現状を打破するには、(現時点で)面白くない人はテレビに出てはいけないんじゃないか、というまことに正当で、おもしろみのない結論にいたってしまったのである。