いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ほどほどの悲しみかた

森繁久彌が亡くなった件について、自分の感覚とメディアのムードの間に温度差を感じざるを得ないわけです。
老衰です。享年96才です。大往生じゃないですか。


にもかかわらず、一昨日からの一連のニュースを視ていると僕からすれば意外なほど、メディアは「深い悲しみ」のトーンをもってこの訃報を伝えているじゃありませんか。


いえいえ別に僕は、森繁という偉大な俳優の父の死を大手を振って喜びサンバを踊り狂えと申したいわけじゃござーせん。生前の彼の俳優としての功績も伝え聞いております。いやむしろ、彼の残してきたものを少なからず知っているからこそ、今回の件に関するメディア全般の伝え方がどうも彼の死に対して、悲壮感を漂わせすぎてやしませんでしょうか、と思うんです。要は、ムード的に「惜しまれすぎているんじゃないか?」といいたいわけです。


人はいつか死にます。まず絶対にこの断言だけははずれない。問題はいつ死ぬかと、死ぬまでに後世に向けて何を遺せたかです。懸案のこの森繁にしてみれば、後世に遺すものも遺し、大往生だった。言ってしまえば、悔いを残すところは(一見すれば)ないわけです。そうなると、人の死は人の死でもこの場合、大往生した人へは人なりの「ほどほどの悲しみ方」というのがあるんじゃないでしょうか。


というのも、僕は子供の頃から人の死、というか法事一般に対してあることを思っておりました。父親が家の長男でありかつそのまた長男に位置する僕は子供の頃はよく、親戚の誰それさんとこの何番目の〜じいさんの×回忌だとかに、一緒にかり出されていったわけです。会ったこと聞いたこともない人の何回目かの法事へ。


はっきり言ってね。知らんがな、です。


だけども「知らんがな」ですめば法事はいらんというわけで、抵抗虚しくかり出された法事において、坊さんが念仏を唱えるのを聞きながら座布団上で僕は、ひしひしと念じていたのです。「生きているやつの行事をもっと増やせ!」と。死んだヤツは何回忌も定期的なスパンで行儀があるわりに、生きている人となると、積極的に動かなければろくに行事がないこの世の中。


繰り返すと生は偶然、死は必然であって、この先どんどん死人は増えていきます、それはもうばんばんと確実に。歴代の「死んだ人数」は増えることはあっても減ることはない。すると「死んだ人に関する行事」もどんどんと堆積していくんです。どこぞのだれだれと、家系図ひっくり返さないとわからない人の死まで悼んでいたらね、いつか生きてる方がもたなくなるよ。


閑話休題
森繁の死に関してコメントを求められた森光子、黒柳徹子の両名は、テレビで見たところ心底落ち込んでいるようでした。でもそれは、彼女らが森繁のごくごく親しい人間でしたし、かつ俳優業においても少し上の先輩ぐらいに数えられるほど年齢的にも近しい人物だったからではないでしょうか。全国民的に、仕事と生を全うした(ように傍目からは見える)彼の死に、あそこまで重苦しいムードを持って応えることがあるんだろうか、と僕なんかは思ってしまうわけです。


96才という大往生をもっと晴れやかに、「逝ってしまったのね〜」といったもっとほのかな悲しみとともに、僕らは迎えられないのでしょうか。