いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

立食パーティー弱者

先日、ある会合の打ち上げとして開かれた立食パーティーに参加した。どちらかというと主催者側の人間であった僕は、全体の動きよりも少し早めに会場に移動して、友人知人らと世間話をしていた。


すると開始時間が迫るにつれ、どんどん膨れあがっていく人数。賑やかになっていく会場。その中で徐々に場の中心から追いやられていく自分。
うすうす気付いていた。今日こそはそのコンプレックスを打破したいと期していた。でもやっぱ、無理だった。これを読んでいる人の中にも少なからずはいるのだろう。実は僕、「立食パーティー弱者」なのである。


立食パーティー弱者とはなんぞや。僕の名付ける立食パーティー弱者の定義は簡単。あの形式の会においてそれは、明らかに場に馴染めてないやつのことだ。そしてその「馴染めてなさ」のわかりやすい指標は、壁の方を見てもらえばすぐわかる。立食パーティー弱者とは、会場の隅っこに陣取るやつらとほぼ同義なのだ。(もちろん僕も含む)彼ら弱者は、会が始まるや否や周りに圧倒されはじめ、徐々に空間的な周縁に追いやられていき、同じく立食バーティー弱者の面々と、中心の方で輝かしい活躍を見せる「立食パーティー強者」たちの姿を眺めながら、愚にも付かぬ談笑でお茶を濁すのだ。


コンプレックスの原因というのは本人にはわからないことが多いが、僕は自分が立食パーティー弱者の理由、その原因を自覚しているつもりだ。端的に言えばあの形式の会というのが僕にとって、コミュニケーションをとるのにはあまりにも「中途半端すぎる」のだ。近くに人がいても、自己紹介していいもんか悪いものか、話かけていいものか悪いものかがわからない。そんな状況で、さらに「基本的には誰ともしゃべらなくても場が持つ」という立食特有の可能性も、コミュニケーションの高いハードルと化す


それが座卓での飲み会との違いだ。自分でこう書くのは少々こっぱずかしいが、僕の場合は座卓での飲み会においては俄然「強者」の側に回る。見知った人同士でなくても、少々話したことのない人ばかりだって世間話からどんどんその場を盛り上げていける、自信はとりあえずある。
んじゃなんで、座卓ではよくて立食ではダメなのかというと、それはやはり、前者の場合は初対面であろうと、問答無用であらかじめ座らされ「話さないとしょーがない」状況に追い込まれるのだ。逆に言えば、「偶然なりにも隣に座ったんだから」というのが、相手との会話の必然性へと転化する。

それに対してどうだ、立食パーティー。嫌ならその場から移動してもいいという状況下において、立食パーティー弱者は好きこのんで心理的な負荷のかかるような場所に行きはしないのだ。


だからこそ生まれるこの格差。そしてさらに、すでに周囲で盛り上がっている強者たちの会話が、弱者の焦りと疎外感に拍車をかける。おい!そこで名刺交換しているやつ、やめれい!!なんかわからんけど、名刺交換してないこっちが焦るではないか。


…………………
というわけで最後に、今回の会合の後に思いついた「立食パーティー弱者」のコンプレックス克服法を、2つほど記しておきたい。
まず一つ目は、いったんは周縁に追いやられた立食パーティー弱者同士が徒党を組んで、もう一度中央に攻め込む、という作戦だ。弱者のため一度は隅っこに追いやられたものの、そこで追いやられた者の同士の会話を盛り上げ連帯感もアップ、中央に攻め込む際に多少強者たちへの話しかけ方がぎこちなくたって、もう大丈夫!キミの背中には、同じく弱者だった何人もの人たちの暖かい視線が注がれているのだから。


これは、意外と有効な手段なのではないだろうか。


さらにもう一つは、その立食パーティーの主役になる、という戦略だ。今回の会もそうだったが、パーティーにはたいてい主役なりホストなりがいる。立食であろうとなんであろうと、招かれた客というのは自発的にその主役/ホストのもとに向かわなければならない。そうなると会話の責任や主体性を、主役/ホスト側はすべて相手に丸投げできるのである。要は構造的に「話しかけられる側」に回るわけ。構造的に「話しかけられる側」に回れば、例え根がどんなに立食パーティー弱者であろうと、立食パーティーにおいてもう周縁の方に追いやられて寂しい思いをしないですむはずだ。


だから提案しよう。立食パーティー弱者および非コミュのみなさん、これからはクリスマスや結婚のパーティーを主催する側に回ればいいんですよ。ついでに結婚もしよう。