いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

反復の愉楽

実家に帰った際に法事に二件ほど出てきた。


縁側では蝉がミンミンミンミン鳴き散らして真夏をアピールしていたけれど、冷房管理の室内は意外と快適で、家族一同仏壇に向かって坊さんの念仏をのほほんと聞いていた。念仏が終わればその後は、例の「ためになる話」が聞ける時間である。ようかんを出していたのだが、ばあちゃんがフォークと間違えてスプーンを添えてしまっていて、話しながら坊さんはようかんを必死にそれで捕獲しようとするのだが形状があまりにも不向きである。つるん、つるんと皿の上ですべるばかりで、それはそれはすごく食べにくそうだった。それで、話のオチのほうになって坊さん観念したのか、皿を口の方に持って行ってすするように平らげてしまったのだけれど、それ以外は何ら異変もなく法事はとどこおりなく終わった。坊さんは帰った。


仏道とか、そういうスピリチュアルなものは余り信じない方なのだけれど、僕はこの法事というのが、意外と好きだ。というのも、法事というのが一種の「反復」だからだ。


以前から僕は、自分が「職人フェチ」であることを自覚していた。額に手ぬぐいで汗して働く男らしい男が好き、…というわけではなく、職人と名の付く人の、その立ち居振る舞いというのが子どもの頃から好きだったのだ。NHKの深夜などに、どこぞの国ともわからない、いったいなんのために使うかも分からない家具の職人の映像などを見ると、時間も忘れて釘付けになる。
職人と書けば少々かたっくるしいイメージがあるが、例えば祭りなどの屋台でたこ焼きを焼いているあんちゃんがよくいたけれど、僕はしばしば他の子どもが群れをなして集う「型抜き」などよりも、たこ焼き屋の前でじっと眺めていた時間が多かったような気がする。店前に陣取られてかつ、買わないでじーっと手元を注視されるのだから、あんちゃんはいい迷惑だったろうけれど。


しかし、いつからか「職人あらざる人」の手つきにも、実は自分が「職人フェティシズム」を覚えるときと同じ感覚で引き込まれることがあることに気がついた。例えば冒頭の坊さんとか。
で、それを考えると僕は僕自身のフェティシズムが、職人と狭く限定されたものなぞではなく、彼らの作業に宿る「反復」にこそあるのではないか、と考えるに至ったのだ。


反復というのは美しい。最初はどんな単調な動作でもしかし、繰り返すことによって各回の間に広がる誤差が軌道修正されていく。そこに作業への「想い」とか「意思」というのは不要なのだ。例えば寿司職人が一貫握るのでも、新人の弟子が懇切丁寧に握ろうとして握ったものよりも、弟子入り10年という兄弟子さんが素早くぱぱっと握ったもののほうが美しい。それでいてしゃりの米粒の数がほぼ一定というのだから、大したものだと思う。


その反復という地平において、坊さんのお決まりの念仏とその作法も、たこ焼きあんちゃんのたこ焼きをひっくり返していく動作も、ディズニーランドのジャングルクルーズのクルーの人の三文芝居も、同等に美しい。