いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

tudaるのに適した会合と、適さない会合

ちょっと前に「tudaる、俺は好かんな」ということを書いた。
あのときは、自分で言うのもなんだが初めて遭遇した未知なるものへの懐疑からか、少々ヒステリックであったきらいがある。例えるならそれは、大金持ちの令嬢が屋敷に忍び込んだイケメン怪盗にいきなり唇を奪われ「な、なな、なによあんなやつ!!」と顔を赤らめ憤慨しているようなものだった(ちがうか)。


しかし、今では若干その考えも変わりつつある。というのも少し前、あるシンポジウムに参加した際にその後に有能なtudaリストによるtudaりを目の当たりにしたからである。なんでもそうだが、やっぱりできる人がやればうまくいくもんだ。

ただ、一点疑問も残る。このtudaるという行為、正確にできたとしてもすべての会合、対談に適応できるのだろうか。というのも、僕がtwitterから読んだそのtudaりは正確ではあったものの、そのシンポジウム自体にあまり適してなかったように感じたからだ。
正確だったのに適していなかったとは、いったいどういうことか。

tudaるのに適した会合

tudaるのに適した会合はずばり、論点、目的等がはっきりしたそれだ。
tudaるというのはいわば発言の要約なのだが、要約だろうと前の発言に何らかの関連はあるはずだ。モニタ上でスクロールしていっても、ちゃんとした会話になるだろう。そのような会合、対談でこそ、tudaりが最大に活かされるのではないだろうか。


そのために何が必要かというと、各論者が共有する明確な論点あるいは共有する目的だ。あらかじめそれが決まっていると、各論者の発言がどんなに錯綜しようが、最終的にはどのターンの話も、もともとあった明確な論点、目的との関わりにて要約できるはず。

例えば裁判なんかはこれに最適だ。被告人と検察官、被告と原告というように、思いっきりある論点をはさんで両者が対立するこのわかりやすい構図だと、tudaる方も比較的簡単だろうし、それを閲覧する方も文脈が掴みやすい(調べてないけど裁判ってtudaれないのだろうか?「報道」の範疇には入ると思うが)。先のニコニコ大会議におけるベーシックインカムについての議論なども、おそらくは適しているほうに入るだろう。

また、どんな会合であっても本編とは別に設けられる「質疑応答」は、tudaるのに適しているはず。要は質問者が「これについて教えて」と尋ね、それに論者が答えるという最もわかりやすい部類の会話のキャッチボールなのだから、これは要約でも問題ないだろう。

tudaるのに適さない会合

一方、tudaるのに適さない会合は言わずもがな、その反対に論点、目的等がはっきりしていないまま進行する類のそれだ。あるいは、論点や目的がはっきりしていても、話しているうちに話題が横道に逸れていってしまうタイプの話者がいる場合も、これに含まれるかもしれない。


僕が聴いたシンポジウムというのは、テーマこそ「ポスト戦後社会と都市文化の行方―いま何が起こっているのか?」とあったが、お察しの通りこれだけでは何が語られるかわからないし、ものすごく漠然としている。そして実際の内容もやはり、一つの論点について厳密に、かつ明確な目的に向かって進められていくというよりも、この「都市」という言葉をたたき台にして、いろいろな論点から、ときに発言者の実体験も絡めて話を進めていくという、いわば戦後社会についての「語らい」に近いものだった。


この場合だと、tudaりの利点はなかなか活かせない。
まず、前の発言と共有する文脈がわかりにくくなる。僕の体験した例だと、先行する論者が「都市のセキュリティ」について話し、その次の発言者が「大学の制度の厳密化」ということについて話した。両発言に対応するtudaりは確かに正確ではあったのだけれど、これだけを見た人はおそらく両者の文脈上のつながりがわからなかったはず。このとき現実には、登壇した人のだれもが明確には述べてはいないのだが、おおよそ「なんでもかんでも制度化していったら人ってバカになるよね、やばいよね」という文脈を共有していたのだ。
そもそもこのシンポジウム自体にたどり着くべき結論や目的が定まっていないからこそこうなるのだが、tudaりだけを読んだ人では、当日暗黙裏に共有されていた文脈までは、よほどのリテラシーがないとくみ取れきれないだろう。もちろんそれらは発言の「要約」であることにかわりないが、140文字という制約からか、その発言の際に発言者がどのような意図をもってそのようなことを言ったのが、極めてわかりにくいのだ。

しかし、tudaるのに適しているかどうかがその会合のクオリティを決めるわけではない

このように、tudaるのに適した会合とそうでない会合が存在する。しかし、前者が後者に必ず優越するとは、実は僕も思っていない。文章読本や小論文の対策本、もしくは会議などのマニュアル本には、「あらかじめ論点を明確にしろ」なんてよく書いてあるけれど、「論点が明確に」なることでコミュニケーションの効率はよくなるかもしれないが、「論点が明確に」なったからって面白くなるかはわからないのだ。

僕がこんな風に書くのは、何よりも参加したそのシンポジウムが面白かったからだ。だがその後にのぞいた例のtudaりは、その発言に忠実ではあるものの、その場に居た人が共有していたであろう“何か”までは伝え切れていなかった。もし、これに参加しなかった人があのtudaりだけを読んで、このシンポの出来不出来を判断してしまうのだとすれば、それはすごく残念なことだと思ったわけだ。


ツイッターでtudaることがその即時性と引き替えに犠牲にするのはおそらく、その場の雰囲気だろう。話者のノンバーバルな表現や、発言の中の言いよどみ、逡巡、あるいは「かむ」ことだって、この「場の雰囲気」の形成に与している。また、先行する発言者の意見に「賛成」しているとしても例えば、完全無欠に100パーセントアンタの意見に賛成だよ!という「賛成」と、どうもなんか納得いかないところがあんだけど今すぐそれを言語化できそうにないし、オーディエンスもウンウンと賛同していてここで異を唱えるめんどくさそーだし…という渋々の「賛成」だって、ありうる。でも、tudaるときそれはメディアの特性上、「ノイズ」としてスクリーニングされてしまう。

だがしかし、一見枝葉末節のようには見えるのだけれども、それら「ノイズ」にこそ、その目的が定かでないウダウダ話すタイプの会合、あるいは話がすぐ脇道にそれるタイプの話者の言葉の「面白さ」が隠されていたりする。


だから、後者の論点や目的がはっきりしてないうだうだタイプの、いわば「語らい」のような会合におけるtudaりというのは、実際に足を運んだ人が事後に回想するときのツールとして有効なのかもしれない。