いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

教養主義者の憂鬱と、そのとりあえずの処方箋

突然だが、世界は教養主義者と教養主義でない人に二分される。この教養とは、いったいなんなのだろうか。大辞泉の「教養」の項には次のようにある。

1 学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
2 社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。

「精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ」とか、なかなか壮大なことが語られているが、ここでは要は「できた人」ということにしておきたい。そんでもって、教養主義者というのはそんな教養を身につけてこの「できた人間」になることを至上命令として胸に刻印している人、だとここではしておきたい。

ところで少し前になるが、増田にこんなエントリーが挙げられた。

強くなりたい新大学生が本当に読むべき本100冊


この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。

あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。


(…)


そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。

これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。

この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。

飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、

黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。

選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。

この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。

ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!


http://anond.hatelabo.jp/20100127001517


自ら「真の「教養」」だと盛大にぶち上げる、なるほどすっばらしいエントリーだ。この下に、当の100冊がずらーっと並べられてある。
このエントリーに表層的なツッコミを入れるのはたやすいことだ。例えばブコメで幾人もが指摘するとおり、なんで当時まだ発売前の前崎賢前田賢セカイ系とはなにか』がすでに入ってるんだとか、そこから類推してもおまえどう見ても思想地図系のシンパだろとか。あるいはこれを最後のオチにもってくるのを忘れてるよ、勢古浩爾『思想なんかいらない生活』が、とか。


そうなんだけれども僕が注目したいのは、そんなブックリストのブックリストとしての瑕疵よりも、この引用した冒頭の文章とそして、このブックリストに対するブコメでの反応全体に漂う、「呆れながらもどうしても気になってしまう」という雰囲気。僕が思うに、このブックリストに限らず、ブックリスト一般に対して、ある種の人たちはこの「呆れながらもどうしても気になってしまう」という態度を取ってしまっているのではないか。そして、この「ある種の人たち」こそ教養主義者と名のつく人たちだ。


まずこの冒頭の文章、その「キャラ立ち」具合が僕としては学びたいところだけれどそれはともかく、ここから教養についてわかるのは、それを身につけると「コミュニケーション強者」になれて、さらにそれは常に「最新型」に「アップデート」されることが必要なものだ、ということ。
要はそれ、「話のネタ」ってことでない?
そうなのだ。どこでも通用する、どこでも使える普遍的な教養なぞ存在せず、あるのはある特定の領域にだけ通用するドメスティックな「教養」だけ。冒頭の辞書には「社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識」とあるが、この広い世の中、一人一人生きている「社会」は違う。そうならば、サラリーマン社会には「できたサラリーマン」がいるだろうし、オタクの社会にも「できたオタク」がいるだろう。その「できた」具合は、領域と時代によって違うわけだ。だから、普遍的な「できた人間」なんてのも、いないということになる。


そんな日本のドメスティックな教養主義が、あるコミュニティ内で当初の「できた人間」になるという目標からどんどん乖離し、ねじ曲がっていくグロテスクな様を見事に活写したのが、その名も高田理恵子『グロテスクな教養』だ。


グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))


新書にしては異常にひねくれているというか、一読では皮肉と皮肉の間に埋め込まれた著者の真意を取り込めないくらい錯綜していて、これはこれで面白い本なのだけれど、話を戻す。

では、こういう「教養のためのブックリスト」が立ち上げられるたびに、なぜ僕らそれを目にする側は「やれやれ」とか「またかよ」というような「呆れ」の態度と、かといって看過することはできないという両極端の二つの態度が入り組んだ複雑な反応を示してしまうのだろうか。おそらくその態度の奥には、そのブックリストに導かれて「できた人」になりたかったかつての自分と、本をいくら読んだってそんなものにゃなれないよ、という現時点での「教養のためのブックリスト」に対する冷めた態度が混在している、と思うのだ。それは昔の恋人から結婚披露宴の招待状が届いた感じ(ちがうか)?


その人を教養豊富な「できた人間」と評価するのはいったいだれなのか。まさか自分ではないだろう。それは究極的に他己評価でしかない。そして、「できた人」というのも、最初に書いたとおり社会それぞれ、場合によっては人それぞれだ。そこに絶対的な評価はくだせない。

「教養のためのブックリスト」が我々教養主義者に提供してくれるのは、その「できた人」までの「距離」の「読書量」という名の形式における可視化なのである。繰り返すが「できた人」に絶対評価はない。しかし、隣の教養主義者と、「どちらが『できた人』により近いか」という相対評価は可能だ。そのとき何を人と比べるか、それこそが「読書量」なのである。


しかし、これはある種のフィクションである、ということにうすうす気づいてくる。
「教養のためのブックリスト」、である。考えてみたらこれはすごいことだ。それらを読了すれば、「できた人間」になれると言っているのだから。もちろんこれは、「ウソ」である。いや、ウソといえば大げさだけど、たとえそれが「できた人」によって構成されたブックリストだとしても、それを読みこなせたら「できた人」になれるかは定かではない。

そして何を隠そう、冒頭以来の登場になってしまったが「教養主義者でない人」にだって、実は「できた人」がいるのである。もちろん基本的な教育は必要だろうが、それだけでも「できた人」になれる人はいるのである。


この「読書量」という呪縛から、やがて多くの教養主義者は説かれることとなる。先にも書いたとおり、読んだ本は目安であって、自分より読書量の多い人が必ずしも「できた人」により近いのではないんだな、ということに、社会を流浪するうちに人はうすうす気づき出すのだ。これが、先に書いた「呆れ」の態度に、如実に表面化する。


では、教養主義者は完全に自由になったのか。彼らにはまだ、もうひとつの、そしてそれは絶対に解けがたい種類の呪縛が残されている。年齢だ。
読書量という呪縛から解き放たれた教養主義者も絶対に解けないのが、この年齢という呪縛だ。教養主義者は同じ教養主義者の年上の人には頭が上がらない。いや、頭は上がらないことはないだろうが、同じ教養主義者の年上の人と同席した会においては、つねに相手へ警戒と少しの畏敬の念を払わなければならない。実はそれも読書量と同く、「自分より年端があるのだからきっとこの人は自分より「できた人」なんだ」という「類推」にすぎないのだけれど、とりあえず警戒しなければならないのが、その年上の教養主義者である。


言わずもがな「教養主義者でない人」たちのほうが、生きやすいのは決まっている。一方、教養主義者が生きやすくなるための、完全な解決策は僕には思いつかない。とりあえず処方できる対策は、「今より年を取る」ということである。この利点は、自分より年下の、つまり自分のことを「できた人により近い人」と類推してくれる後輩が増えていき、そして何より、自分よりも年上の人たちがどんどん死んでいってくれるからだ。