いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】浅羽通明『大学で何を学ぶか』(1999年初版)が未だに通用しすぎててヤバい

一昨年あたりに、ユニクロが提案した「大学1年採用」が物議を呼んだ。
ユニクロはつまり、大学の教育は企業としては何の意味を持たないといっているわけだ。

しかし、初版99年の浅羽通明『大学で何を学ぶか』に「卒業という出口の向こうで待つ企業(世の中)が、大学へ求めるものは、入試(入口)の偏差値と言う学生の選別に使えるレッテルだけ」(p.83)という記述を見るにつけ、むしろこうした企業が出てくるのは遅すぎたんじゃないだろうかと思える。

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

大学で何を学ぶか (幻冬舎文庫)

一人称「オレ」の軽妙な文体だが、結論から言うとこの本が明かす大学論、そしてそこを起点に広がる社会論と言うのは、いまでも全然色あせていない。通用しまくっている。

仰々しいタイトルは大いなる皮肉で、著者は大学で、とくに「文系で、それも、文学部の社会学科や心理学科あたりに、よくわからないけれど何かあるんじゃないかとほのかな期待を抱いちゃったり、『人間』だの『環境』だの『情報』だの『国際』だのがくっついてる新しいげなネーミングに引かれて、学部や学科を選んじゃったりし」た学生に語りかける。
大学の言うことを真に受けていたらヤバイぜ、と。

本書が明かすのは、大学の「建前」に騙されていた学生が、卒業した後やっと気づくことになる社会の「本音」である。

この本が明かすのは、いわゆる「就職予備校」になってしまった大学と、そしてそこで伝授される知の無効化だ。

大学は研究機関であるとともに、教育機関でもある。

だが、教育者であるはずの教授らはしかし、意識的には「専業学者」という人も少なくない。

そういう「オタク」に占拠された大学で講義される知は、いつしか「使用者を無視して作成者の趣味で勝手に使いづらくされていったカタログのようになってしまった」(p.226)のだ。


だからこそ冒頭で述べたように、企業は“大学で学んだこと“には期待しない
企業にとって、大卒 という存在は、大学生にいたという事実と、そしてOBOGからなる大学という「世間」に接続できたことこそが、何よりも重要なのだ。

だからこそ筆者は、大学で学ぶことがそのまま一般企業への就職といった"一般的なライフコース"に地続きだと思い込んでいる学生らに警鐘を鳴らすのだ。

ダマされた。大学はそんなところだったのか、でももう大学に入ってしまったよ!? そんな学生はどうすればいいか。

筆者は「大学新入生がまず読むべき本は?」と聞かれたら、まっさきに就活本を勧めるという。

就活で有利な位置につけるには、企業に自分をどう売り込むかを一日でも早く考え始めた方がいいからだ。

13年現在、履歴書やエントリーシートの欄を埋めるための海外留学やインターン、学生団体を立ち上げるといったネタ集めに奔走する多くの学生を眺めていると、この本の予言が悪い意味で当たってしまったとしか思えない。


そのようにこの本で、人文系、社会科学系の大学がボロカスである。

しかしそれでも、それでも「教養」や「学問」に惹かれてしまう少数派の読者に、筆者は厳しいがでもそれでもいいなら、と語りかける。
人文学的な知は自然科学ほど客観性はないと留保しつつ(このあたりの著者のバランス感覚は好きだ)も、それらが先人たちによる「考え方のモデル」であるという。「教養」としてそれらを収集し、自分なりの「カタログ」を作れ、と筆者は諭す。

でもそれは大学教員になれ、ということでもは毛頭ない。

「教養」とは、本来、生活のさなかに引用されることでその生命を繰り返し甦らせてゆくものであるとすれば、いまこそ、カタログをユーザーの側から捉え直すときではないか。
 そして、その適任者こそ、サラリーマンであれ、その他の職業であれ、多数者に混じりながら、引用のカタログを磨いてゆく生き方を、否応なく引き受けざるをえないきみにほかならない。
 それは比叡山を降りて説法を始めた鎌倉期の念仏僧たちや、教会から異端を論破する任務を帯びて中世都市へ派遣されたドイツの布教者たちにも似た立場であろうか。期せずしてミイラ取りはミイラと成り、彼らは鎌倉仏教の、宗教改革の先駆者となったのである。
 「教養」の可能性の中心は、かくしてきみの将来にある。
pp.226-227

本書が「教養」に憧れる者にすすめるのは究極の「知的アマチュアリズム」である。
先駆者だなんて無責任な、という読者がいるとすれば、安心していい。何を隠そう、この筆者浅羽こそ、その最先端を歩んでいる一人であると、ぼくは確信している。