いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「いじめられっ子は想像力豊か」という言説についての注釈


大人になって大成したタレントやクリエイター、アーティストがテレビなんかで、子供の頃はよくいじめられていたというようなことを言うのを、よく聞く。そういう人は、大人になって急に才能が開花したというよりも、学校という村社会の中にいた子供の頃から、他人と考えることや言うことがすこし違っていて、それがもとで異端あつかいをうけ、いじめられる。
かくして「いじめられっ子は想像力豊か」という一種のストーリーは、まことしやかに語られはしないものの、おそらく大多数の人が共有しているのではないか。

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しかしそうすると、彼らをいじめる側つまり「いじめっ子」は、彼ら「いじめられっ子」に対して、想像力において劣るのだろうか。僕は前々から、このことに疑問を持っていた。なぜなら、「いじめられっ子」の脳内がクリエイティブであるのと同じように、いじめだって「クリエイティブ」でないと務まらないからだ。


というのも、いじめというのは「いじり」の発展系だからだ。ただ単に相手を貶めるだけではだめで、その様子を見た周囲の人間を面白がらせなければならない。もしそのいじめが「サムい」と、周囲の人間はそのいじめの本質的な陰湿さ、酷さ、むごさ、いわば「いじめの零度」に気づいてしまう。それがもとで下手すればいじめられっ子の側に回って、いじめを阻止されるかもしれない。
周囲の人間をいじめられっ子の側に加勢させるわけでもなく、かと言って自分の側に加勢させるわけでもないのだけれど、自分のいじめ≒「いじり」を見せて嗤わせることによって、彼らが心理的には自分の側にいることを際立たせるのだ。だから人をいじめる人間は、ある意味「クリエイティブ」でなければつとまらないと、僕は思うのだ。


「いじめっ子現役時代」の想像力を、仕事の場でいかんに発揮しているなぁという人は、たしかにあまり見かけない。僕にとっても、「こいつは絶対そう!」と確信もって指させるのは、ロンブーの淳ぐらいだ。しかしこれについても考えてみると、合点の行くある説がある。
「想像力のあるいじめっ子」は、「想像力のあるいじめられっ子」と違い、学校社会からはじき出されない。むしろはじき出す側だ。だから、ふつうに進学し、ふつうに就職できる。想像力豊かないじめられっ子の多くが、いわばふつうの会社社会からはじき出される格好でメディアなどに登場する有名人になっていくのに対して、想像力豊かないじめっ子は、会社社会の中で、組織に守られる格好でぬくぬくとそのクリエイティビティを発揮しているのではないか。


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前々からそう考えていたのだけれど、事態はそう簡単でもないらしい。実は今日、小学校の頃からいじめに遭い続けてきた、筋金入りのいじめられっ子とだべっていた。その人によると、確かにいじめられっ子のクリエイティビティは認めるが、いじめられっ子はそのさらに上をいくそうなのだ。
どういうことかというと、いじめられっ子もいじめられ続けると、いろいろと次を予想するものなのだそうだ。
「次はこれが来るかもしれない、いや、あれが来るかも」。
そういう想像が加速していけば、いじめっ子が実際に仕掛けてくるいじめの方法を、いじめられっ子の猛々しい想像力が追い越してしまうというのだ。気づけば、自分の想像の方が、彼らの用意したいじめよりも悲惨だったりするのだそうだ。結果自爆するというか、いじめられていないときにも自分の想像によって首を絞められるということがあったのだそうだ。


なるほど、そうなると確かに「いじめられっ子は(いじめっ子より)想像力豊か」だということになるが。
…でもそれって極めて希な逸材でない?と、書いてみた今にしては思うこともある。