いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

情報格差ってなんだろう

つい先日、教育テレビの高校講座「情報」を眺めていた。それはたまたま最終回だったのだけれど、村落に居住するあるおばあちゃんを題材にして情報格差の問題を扱っていた。その地域では自治体がネット利用を促進するようになり、そのおばあちゃんもネットを農業に活用できるようになったから大変便利です、とカメラに向かって満面の笑みをたたえていた。


この「情報格差の問題」に僕は、どうも解せないところがある。


情報へのアクセス性についての格差がある、そのことを認めるのにやぶさかではない。でもそれを是正されるべき「問題」として扱うとなると、僕はすこしわからなくなってくる。

まずその前提として格差問題一般って何なのだろうか?格差というのはひとつの状態であって、それが「格差問題」となるにはきっと、なんらかの条件があるはずだ。
そこで考えてみるに、

一つは、格差下層にいる人々が下層にいることで不利益を被っている、ということ。
もう一つは、格差上層にいる人々が上層にいることで利益を得ている、ということ。
この二つが格差が、格差問題としてとりあげられるために必至な条件なんじゃないだろうか。

そして僕には「情報格差問題」が、この二つを十分には満たしていないように思える。


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まず冒頭に出てきたおばあちゃん。ネットを利用し始める前までおそらくは、情報格差のかなり低いところにいたはずだ。ではそのとき、彼女は情報格差の下層としての不利益を被っていた、という自覚はあっただろうか。僕には、おそらくはなかっただろうと思う。というのも、情報格差ということ自体が、ある種の「情報」だからだ。
情報格差」というのは、実はネットリテラシーがあまり高くない人は、ついぞ知らない単語だ。ためしにうちのオカンなんかに「情報格差って何?」と訊いたところで、正解が答えられる期待は、まーない。言葉を「デジタルデバイド」に代えたならさらに望み薄だ。


「自分は情報格差の下層にいることで不利益を被っている」という現在形の実感を、情報格差の下層にいる人が持つということは、あまり考えにくい。というのも、ネットでもそうだし、ケータイでもそうで、僕らはそれらデバイスに生活全体が浸りきった今だからこそ、「もしネットもケータイもなかったら…」という仮想の向こうにひろがる不利益を想像することができる。「自分は情報格差の下層にいて不利益を預かっている」という自覚は、常に事後的に、つまり「自分はかつて情報格差の下層にいて不利益を預かっていた」という形で立ち現れる。「もうすでにいない」という形で立ち会われる彼ら「情報格差の下層にいる人々」は、現在を実体的にはもう存在しないのだ。「格差是正」後に顕在化するそんな情報格差問題というのは、果たして本当の問題なのだろうか。

論理的にいえば自分が今現在被る情報格差を知っているにもかかわらず、それを是正することができないというところには「情報格差」は問題としてあるだろうけれど、安価でネット利用のできるこの国においてはおそらくその根っこの部分には、「賃金格差」の問題の方が大きくあるだろうし、そこに「地方」が絡めばそれは、「地方格差」の問題の方がよっぽど大きいはずだ。


いやしかし、こんなに便利なツールを使えない彼ら/彼女らは、はやり不利益を被っているという意見もあるだろうけれど、そういう人たちはあらゆる情報が、あらゆる場所にて等価にやりとりされうるものだ、という幻想に浸っているだけではないだろうか。

どういうことかというと、例えば「おばあちゃんの必要としている情報」と「大学生の必要としている情報」は、まったく別物なのだ。おそらくあのおばあちゃんにとって喫緊な情報とは、明日は晴れるかだとか、今年の農作物のできはどうだったとかであって、決して2ちゃんねるのサーバーが止まったなどではないわけだ。そんな村落での野山の自然と戯れる「なに不自由のない生活」を指さして、「それは情報格差だ」と指さすのも、少々ありがた迷惑な行為だ。

これに関連して、一昨日に起きたチリの大地震。日本では17年ぶりの津波警報が話題になったけれども、ツイッターでは興味深いつぶやきを目にした。

日本語圏外のタグ(chile,chili,earthquake)への日本語ツイートを控えてください。現地は電話が繋がらずtwitterで生存・死亡確認をしており、日本語の文字化けが混乱を招いています。日本語は #Chile_eq #chilejp #jishin で


僕自身一昨日と昨日、Twitter上で何度も目にしたので少し「有名なつぶやき」なのかもしれない。「なるほどなぁ」と感慨にふけるのは、実際に被害に遭っている人もいるから不謹慎かもしれないが、このつぶやきには情報の通じる領域とそれから、この後で書く「情報過多」の問題が含まれている。
ここでの問題は「文字化け」であったが、たとえ日本語話者が書いた日本語が文字化けすることなくその通りが海の向こうのチリで読めていたとしても、かの国においての日本語の識字率過半数を超えることはないだろうから、おそらくそれはどんなに有用な情報だったとしても、チリの人たちにとっては情報にならないわけだ。


情報格差が問題として立ち現れるのは、両者が同一の「共同体」にいるという前提においてのみだ。その「共同体」は規模も形態もまちまちだろうけれども、例えば「大学生」というのも、一つの共同体と考えることができる。今や就活にはネットは必須であって、もし就活生の中の誰かしらが何かしらの理由でネットの利用を阻まれていたとすれば、それは立派な情報の「格差問題」だ。しかし、多くの大学ではすでにPC利用が促進されていて、個人のアカウントも付与されている。

このように、多くの共同体“内”での格差は解消されているのであって、共同体“間”のそれは問題にならないのだ。


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では次の一点、「格差上層にいる人々が上層にいることで利益を得ている」のだろうか。例えばインサイダー取引などの違法行為から利益を搾取するということもあり得るけれども、そのようなアクロバティックな例ではない通常の場合、僕はこれも少し違っているように思える。なぜなら情報は貨幣とちがい、アクセスできるそれが多ければ多いほどよい、ということではないからだ。

これもまた災害のたとえ話をすると、大地震が起きてAさんとBさんの二人が被災地に取り残された。Aさんはモバイル機器などを利用できる分、利用できないBさんより情報格差において上にいるといえる。そして、それらの機器を利用してAさんは安全な場所への脱出経路として橋が崩れずに残っているという情報を得て、そこに向かう。その後脱出路を知らずにその場で途方に暮れていたBさんは、ドクターヘリの救助に救われ難を逃れた。Aさんが向かった橋は崩れさり、濁流に飲み込まれていった、渡っていた途中のAさんとともに。これは極端な例え話かもしれないけれども、「株式投資」なんていうのは、こういうことだったりするのではないか。



何が言いたいかというと、どこまで情報を集めることができたとしても、その量によって自分より情報を集められなかった人よりも利益を得ることができるかは、はっきりいってわからない、ということだ。

例えば結婚。相手の職業、外見、内面、年収、年齢、身長、体重、性癖、服の好み、好きな映画、黒子の位置、性癖、マヨネーズをかける食材、相手に対するそのほとんど全ての情報を取得できていたとしても、残された最後の情報、「ホントはあなたを愛していない」が抜け落ちているかもしれない。
結婚後にコロッと態度が冷たくなる、ならまだいい。もしかするとあなたのフィアンセは、あなたの食べる毎夜の夕食に塩分をちょっとずつ多めにしていきやがては病気を患わせるという「三〇カ年計画」の保険金殺人を画策しているかもしれない。つまり情報は、いくらあっても「不足」なのである。むしろ、手持ちの情報が多ければ多いほど、それが覆された時のショックはデカいかもしれない。


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情報へのアクセス性が低いこと自体は当面の問題ではないし、情報へのアクセス性をいくら高めたからって“正解”に行き着けるとは限らない。
では、情報格差の上層であろうと下層であろうと、何が必要なのかというとそれは、与えられた情報を的確に整理し、そこから的確な判断ができるか。結局はそういった個人の資質的な問題に落ち着く。
いわばそれは「情報“編集”格差」だ。
でも繰り返すが、それは個人の資質や能力の差によって生まれる差異だ。この世には「個人の資質や能力」によって生まれる生得的な差異はいくらでもある。身長や体重、何かについての才能、はたまた容貌まで、多種多様あるそれらを例えば「美人格差」なんてふうに嘲笑も交えて揶揄する人はいるのだけれど、問題はそれらを「格差問題」として真面目に取り組んでいる人を、僕自身はついぞ見たことがないということなのである。