いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ブロガーの「死」について

少し前、タレントは死なないということについて書いた。

テレビタレントは死なない。死ぬのはカメラからもはやネグレクトされた「人間」であって、そういう意味において山城新伍の最期というのは象徴的だった。もしテレビスタジオで死が映されかけたら、カメラはその人間=タレント=今死のうとしている物体から、レンズを背けるはずだ。


さて、そんなこと書いた直後に、複数の人との会合を持ったのだが、そこでふと思った。ブロガーだって、「死なない」のだ。


例えば、偉大な作家について考えてもらいたい。彼/彼女がもし死ねば、その死はたちまち家族に伝わり、出版社に伝わり、メディアを通して全国の人間に伝わる。(大原麗子の件のごとく)そこには多少の時間差が介在するかもしれないけれども、その死が認知されたことによって、その作家は「終わる」のであり、読者はその作家からは新刊はでない、という形で死を受け入れる(受け入れざるを得ない)。ある雑誌は「追悼特集」を組むだろうし、ある会社は「遺稿集」というセコイ戦略をとって、小銭を稼ぐのかもしれない。そういう世の営みは全部引っくるめて、その作家の存在を死という海の岸辺からゆっくり沖へと流してやる作業のように、僕には思える。そういう形で、その人はもういないんだ、ということが社会に登録されていく。


ブロガーはどうか。あるブロガーが、例えば今日8月21日に突然、何の前触れもなくポックリ死んだとする。
もちろんネットと関係なく回るその人個人の生活世界では、彼は家族、知人に惜しまれながら葬送されるのだろう。そうやってその人の死は、社会に登録されるのだ。
しかしその人のブログは……最終の更新20日で止まったままのはずなのだ。ページが無くなるでもない、もちろん更新もされない。ただ、それで終わりだ。実は、画面のこっち側で実際に文章を書いている「人間」の生き死にと、ブログ=アカウントというのは何ら関連無く存続している。

ブロガーが活字の作家とことなるのは、「中の人」という表現が臭わしているとおり、それがある種のキャラとして認知されているふしがあるところだ。伊藤剛の論を待たずとも、キャラは老いないし死なない。それは文体が不老不死なところと似ている。


今からの時代、ネット文化にどっぷり浸かった世代が老いていく。するとどうなるか。おそらく、膨大なアーカイブと化したブログ群の中で、僕ら読み手は知らぬ間に、「死んだ人」の記事を読むことになるかもしれない(そして、現に読んでいるかもしれない)。そのブログは、この既存のネット文化が存続する限り、誰にも邪魔されることなく存続し続けるのだろう。不謹慎ながら、僕はこういうことに興味を持ってしまう。
もちろん中には、自分の死後に自分の書いたものがネットで閲覧できることに気味悪さを覚える人がいて、死期がせまってくると自主的に閉鎖、もしくは遺書に「ブログについて」という項を設けて遺族に閉鎖を頼む人も出てくるかもしれない。

でも大多数のブログというのはおそらくきっと、書き手が死んでも存在し続けるのだ。アップデートなきまま、100年、200年と続く可能性だってなきにしもあらずだ。僕はそれがいいとか悪いとかが言いたいのではなくて、僕の想像力の及ばないぶっとんだスケールの話だなと、ただただ驚嘆するばかりなのだ。


最近「アーキテクチャ」という問題が、一部論壇で盛んに取り上げられている。自己増殖していくネットワークはさながら「自然」のようであるし、その暴走を僕ら使用する側は、いかにとらえていくか、それはそれで大問題だろう。


しかしそれ以前に、僕らはいつかはやがて死ぬのである。ブログも2ちゃんねるも、それら膨大なシステムは、書き手が死んでいってもシステムとして稼働し続ける。また新たな書き手を補充することによって。


僕が死んだら、このブログはどうするんだって?
今のところ決めていないが、まぁ死んだからといってアカウントを抹消することもないだろうと思うし、せっかく書いた記事を消すこともないだろうと、思う。曾孫ぐらいに読んでもらって、「曾じいさんこんなこと考えてたんだ」と尊敬してもらうもよし、軽蔑されるもよし。


だけど、そのブログの書き手が死んでいるのか生きているのかわからない、っていうのは、個人的にはちと気持ちわるい。


いっそ今のうちに、2200年くらいのところに、
「たぶんこのブログの主は死んでいますのであしからず」

とでも入れとこうかな。