いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「日本の難点」は「感染」=転移で乗り切れ

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

夏の暑さにかまけて、というかかまけているにも関わらず、こんな難解な本を間違えて手に取ってしまった。
意外や意外、著者初の新書版らしい。僕は宮台真司の本を実はあまり読んでいなくて、『終わりなき日常を生きろ』や『サイファ』ぐらいなのだけれど、最初読んだときはやはりこの人の書いている内容よりもなによりも、その文体が気にかかった。現在売れているのは売れているけれど僕の周りでは現時点でだーれも評価していない宇野常宏の例の本は、明らかにこの人の文体の影響を受けていると思う。大塚英志などもそうだが、現在批評家として名の通った人は、文体で読者あるいはファンを魅了しているのだと思う。裏を返せば、魅力的な文体を持たなければ、なかなか這い上がれないという苛酷さがあるのだろうけれど。


さて、論理の上に論理を重ねていくかのような本書の内容の全般を細かく見ていくことは、正直一読の僕に(そして、たとえ二読三読したとしても)、手の終える代物ではない。
ただ一点、僕の関心領域と直接接続したかのようなところだけ。それは「スゴイ奴」について。

「「いじめ」は本当に決してなくせないのか」という節において、宮台はいじめを「人の『尊厳』を傷つけ、そのことで『自由』を奪ってしまう」ものだと定義し(こんなこと定義するまでもないか。。)、それに対して言いうるのは理屈などでもなんでもなく「ダメなものはダメ」ということなのだと、考える。ただその「ダメなものはダメ」を子どもたちに伝えるのにも方法があり、単なる「説教」では「クダラナイ」。

ではどうすれば、いじめを「ダメのものはダメ」として子どもたちに伝えられるのか。宮台が打ち出すのは「感染」である。

心底スゴイと思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです。「いじめたらいじめられる」なんていう理屈で説得できると思うのはバカげています。(中略)
そうじゃない。「いじめはしちゃいけないに決まってるだろ」と言う人がどれだけ「感染」を引き起こせるかです。スゴイ奴に接触し、「スゴイ奴はいじめなんかしない」と「感染」できるような機会を、どれだけ体験できるか。それだけが本質で、理屈は全て後からついてくるものです。
『日本の難点』52-53pp

「理屈で説得できると思うのはバカげています」、これを宮台の自己言及的な物言いだとすると、スゴイことを言っていることになる。
本書はつま先から頭のてっぺんまで理屈で構成されていて、この文言の前も後も膨大な「理屈」が繰り返されているにもかかわらず、ここでそれら理屈の群れはこのなにやら正体不明の「感染」という事象の副次的なものにすぎないと、言ってのけているのである。
これは、僕のうがった見方でも何でもない。この「スゴイ奴」というのは、本書の最後に持ってこられている第五章「日本をどうするか」の最終盤でも変奏的に再登場する。合理的に考えれば、割を食うだけの日本の「変革」に、もし人々を駆り立てることができるとすれば、それは「スゴイ奴」への「感染」なのだというわけだ。


こういう書き方をするとバカにしていると思われかもしれないが、そうではない。僕はむしろ、この箇所を好意的に読んだ。しかしどこか、「あの言葉」がでてこないことに、苛立ちを覚えていたのである。「宮台サン、なんでそこであの言葉を使わないんだよ」と、ここを読みながら、かゆいところに手が届かないときのような不快感を催していた。


そのキーワードとはずばり、て・ん・い。
そう、転移である。精神分析的にいえば、ここでいう「感染」とは「転移」だ。オカルティックな様相漂う「感染」なんて言葉をつかわず、ここははっきり転移と言えばいいのではないか(それとも、精神分析自体一種のカルトということか?)。
このことと重なる問題について論じた記事を読んだ。

精神分析では啓蒙という言葉は使わない。その代わりに、転移という言葉を使う。分析者と被分析者との一種の関係性を表す言葉である。


啓蒙なんてできるんですかーTAGTAS円卓会議にて - 続・自我闘病日記

miyata1さんが当該記事で書いていることは、この問題と重なるところがある。
この「感染」=転移と対置されるのが、おそらく啓蒙(宮台のいうところの説教)だろう。啓蒙とはそもそも、「啓蒙する側」が「啓蒙される側」よりなんらかの価値基準(本書でいうところの「評価の物差し」)において「上位」に位置しなければなりたたない。そうなると、「物差し」が何本も林立し、さらにどちらが上でどちらが下かもわからない四次元空間的な現代社会(本書でいうところの「底が抜けた社会」)においては、きわめて分が悪い。

臨床で、被分析者は分析者をある特定の人物に置き換えて、分析者(=ある特定の人物)に対してこれまで抱えていた問題を反復する。このときの両者の関係性を転移と呼ぶ。この転移状態にあるとき問題が解決されることがある。問題の所在、問題の真理に、被分析者がはたと気づくのである。被分析者が自ずと蒙を啓くともいえる。
同上


一方転移よってもたらされる真理の提示とは、ある意味では物指しのの提示である。だがそれが啓蒙と違うのはそれが、万人が万人と共有するもの差しではなく、この「私」たったひとりが持つもの差しだということだろう。

分析者があらかじめ被分析者の問題を熟知し、そのことを告げたからこうなったのではない。分析者はその問題については何も知らない。ただ、知っていると想定された者として被分析者と対話するだけである。そして、転移状態に入ったら、被分析者が自分の真理と対峙できるように対話にバリエーションを加えるのである。
同上


被分析家の抱える問題について「何も知らない」のになれるということはつまり、分析家には誰でもなれるということであり、真の意味での分析家には誰もなれないということだ。この分析家―被分析家の関係を、師―弟子の関係に置き換えると分かりやすい。師とは「教師」のように定量的な知識の分配者ではなく、その弟子固有の、その弟子のみにおいて通用する教えを授ける。師とはその弟子の中において唯一無二、絶対的なもの差しとなる。「先生はえらい」(@内田樹)とはつまりそういうことだ。


この転移とは、臨床という特殊な事例のみにおいて発生する現象ではない。分析中に分析家と被分析家のどちらかあるいは両方が、相手方に恋愛感情を持ってしまうというのを、転移性恋愛と呼ぶが、フロイト恋愛学派(どこのだれだって?この僕だ)に言わせればそれは、転移による恋愛の変種などではなく、恋愛こそが転移の副産物なのだ。そう、ドゥオーキンに習いこう言おう「すべての恋愛は転移である」、と。

話はそれているようだけれど、これが意外と的外れでもなくて、例えば心底愛している(=転移している)彼氏/彼女から、「いじめはやめなよ」と諭されれば、理屈云々よりもそれはやめなければならないだろう。「意味より強度」とはつまりこのことだ。それでやめないんなら、その恋愛自体がだいぶ冷めたものになってしまっているかあるいは、その恋人も一緒にいじめに参加しているか、そのどちらかだろう。


ただ、これまた精神分析的にいえばアンビバレントというものも考えなければならなくて、かわいさ余って憎さ百倍ということもあって、浜辺でじゃれ合う純愛が恋愛ならば、帰ってきた同棲相手を道理無視して一方的になじり倒すという本谷有希子的恋愛のそれも、同じ転移の所産なのである。
「スゴイ奴転移」に関しても、スゴイ奴にでは「じゃあ死んでくれる?」と言われればどうするんだとか、ひととなりは「スゴイ」けれど向かう方向がかなり「ヤバイ」という場合は、そのエピゴーネンたちもヤバイことに巻き込むという意味でよりいっそうタチが悪くはなる可能性もある。


とはいえ、社会システム論のもはや大家ともいえるであろう宮台真司が、一周回ってか(はたまた道を逆走してか)精神分析的な知と出会ったというのは、個人的に感慨深かった。