ネットフリックスのオリジナルドラマ『宇宙(そら)を駆けるよだか』。若いキャストが集まったいわゆる「学園モノ」なのだが、痛烈なメッセージが含まれている。
タイトルの「よだか」とは、おそらく、宮沢賢治の短編『よだかの星』から取られていると思われる。『よだかの星』は醜い外見で他者から疎まれる夜鷹が主人公の作品で、本作も美醜が大きなテーマとなっているからだ。
クラスメイトからの人望が厚く、想い人の公史郎と結ばれ、順風満帆な高校生活を送っているように見えた小日向あゆみ 。
ところがある日、クラスメイトの海根然子が飛び降り自殺を図ったところを目撃してしまい、明くる日、目を覚ましたあゆみは、然子と外見がそっくりそのまま入れ替わってしまったことに気づく。
■<外見>によって<環境>が変わる
いわゆる「入れ替わり系」の作品は、これまでにも数々の名作、怪作が生み出されている。故大林宣彦監督の尾道三部作の一つ『転校生』や、近年では新海誠の『君の名は。』が記憶に新しい。
変わり種では、警察がマフィアのボスと顔を入れ替え潜入捜査する、ジョン・ウー監督のアクション映画『フェイス/オフ』もある。
どのジャンルの作品も「入れ替わる前と後の違いによって当事者が味わう苦難」が焦点となっている。
そんな中、本作は「入れ替わり」という設定を使い、「美醜」という問題にメスを入れる。
それまでクラスの誰からも顧みられなかった然子は、あゆみに入れ替わったことにより、彼女の取り巻きにちやほやされ、順風満帆なスクールライフを送り始める。
一方、然子に入れ替わってしまったあゆみは、事情を知らず、彼女のことを然子だと思っている友人たちに邪険に扱われ、孤立してしまう。
「いつもと同じ学校なのに…。まるで知らない世界にいるみたいだった」
然子の<外見>になったあゆみの視点を通して本作が伝えるのは、<外見>が変わってしまうことで、主観的な<環境>も変わってしまうということだ。
クラスのアイドル的な存在であったあゆみの<環境>と、誰にも顧みられない一人ぼっちの然子の<環境>は、同じクラス、同じ空間であろうと全くちがっていたのだ。
男と女の入れ替わり(『転校生』『君の名は。』)や、善人と悪人の入れ替わり(『フェイス/オフ』)とは一味ちがう。本作は、「美醜」の入れ替わりによって「ルッキズム(外見至上主義)」が支配する残酷な現実をぼくらに見せつけてくる。
■<環境>によって<中身>が変わる
しかし、本作『宇宙を駆けるよだか』の本当に痛烈なメッセージ性は、その先にある。
然子はあゆみの<外見>を手に入れさえすれば、全てが変わると思っていた。しかし、人を信じられない性格の然子は、あゆみの<外見>であっても、心安らかになることはできない。不安から周りに当たり散らし、次第に孤立していってしまう。
対する然子の<外見>になってしまったあゆみは、いち早く入れ替わりに気づいてくれたクラスメイトの俊平とともに、元通りになる方法を探るために奔走する。また、然子として学園生活を送りながらも、持ち前の性格で次第にクラスの人望を獲得していく。
あゆみの<外見>に入れ替わってみたところで、<中身>が醜い然子は、変わることはできなかった。反対に、<中身>も清く美しいあゆみは、醜い然子の<外見>になってしまったとしても、周囲の人間たちに醜さを愛嬌と読み替えてもらるようになっていったのだ。
これは恐ろしい話だ。<外見>が美しい人間は<中身>も美しい(だから、醜い<外見>に変えられても這い上がれる)、<外見>が醜い人間は<中身>も醜い(だから、美しい<外見>になっても何も変らない)、というのである。
しかし、くれぐれも、これは<外見>が美しいならば<中身>が美しく「生まれる」というわけではないので注意。
終盤、あゆみへの「入れ替わり」を画策した然子を追い詰め、俊平や公史郎が非難したとき、然子の<外見>を通して、厳しい<環境>を味わったあゆみは、彼女を擁護する。
「私は海根(然子)さんを責められない。私、誰か分かってもらえなかった。それだけじゃない。突然傷つけられて、どうしようもなく苦しくて、きっと…海根さんもそうだったんだと思う。そうなったら一人じゃどうにもできないの。強くなんていられないし正しい判断なんてできないよ」
数週間どころではない。生まれてからずっと。<外見>が原因で差別される過酷な<環境>にいれば、<中身>が変わってしまうのも仕方がない、あゆみはそう言う。つまり、<外見>によって生きる<環境>が変わり、また<環境>によって<中身>も変わる、というのだ。
ではなぜ、然子の<外見>になったあゆみは、それでも挫けることなく、自分を邪険にするクラスメートたちと新たな関係を築けるにいたったのだろう。皮肉ではあるが、それはあゆみの<外見>だったころに培われた、持ち前の前向きな<中身>があったからなのだろう。
あゆみが差し伸べた手を、然子は振り払う。
「ちょっと…あたしが間違ってる前提で話進めないでよ。あんたら美形はいいわよね。綺麗ごと並べるだけでそれで正義になれるんだから」
そして、然子の<外見>、つまり元の自分の<外見>をまとったあゆみを掴んで立ち上がらせ、俊平、公史郎らに向かって見せつけるように訴える。
「この顔で生まれてきても今と同じこと言えんの?」
口でどんな綺麗ごとを並べ立てようと、結局は<外見>がすべてを決める――それは、生きてからこれまで<外見>に苦しめられ続けた然子の心の叫びなのだ。
本作『宇宙を駆けるよだか』は、少し簡略化してはいながらも、<外見>、<中身>、<環境>の3要素の複雑な絡み合みあったルッキズムの絶望的な拭いがたさを見事に表現している。
なお、本稿ではあえて詳しく触れないが、「2人2役」という複雑な入れ替わりの設定を見事に演じきった清原果耶(あゆみ→然子)、富田望生(然子→あゆみ)の2人の演技力は圧巻だ。