いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

かくして勝間はイデアとなった


お前格闘技ファンだろといわれれば否定はできないほどにはこれまでシーンを追いかけてきたつもりだけれど、どうもここ数年、胸のときめくようなビッグマッチにめぐりあっていない。メイウェザーVSデラ・ホーヤとかミルコVSヒョードルとか、目を見張るようなカードが実現したとしても、周りの熱気に同調できない。そこにはもちろん、僕の中での格闘技の重要度の低下もあるのだけれど、一番はタイミングであり「鮮度」だ。見たいカードが見たい時に実現する、これが最も大切なことなのだと思う。


そんな僕が、ひさびさにときめいた「ビッグマッチ」があった。
リングはAERA今週号の巻頭、競技とカードは「対談 勝間和代×香山リカ」。

本物の格闘技中継と同じく、まず両者に横たわる「因縁」を話しておかなければならないだろう。
二人の物語は、香山リカの近著『しがみつかない生き方』に始まる。香山の著作の中で最も売れているという本書が物議を醸したのは、初版当時の帯に次の文句、


が刻み込まれていたからだろう(今店頭に並んでいる版では、なぜかこの言葉は帯から消えている)。本文においても同題のついた10章が用意されている。


あれだけ著書のある香山の本の中で、本書が一番売れた(現在30万部)というのは、勝間和代ならびに「勝間和代的なもの」に対しての、社会の中に蔓延る少なからぬミソジニーというものの証左ではないだろうか(もっとも、男によるミソジニーの素朴すぎる表現を回避するために、同性である香山がかり出されたと邪推してしまえば、それはいやーな話ではあるが)。


ここにあるのは、仕事も子育ても何から何までやってのけるスーパーウーマン勝間と、その「スーパー」に憧れ目指したけどなれず結果心を病み自分のもとを訪れた女たちを幾度となく看てきた香山、という構図。あるいは「頑張ればできる」と言う勝間と、「頑張ってもできない人がいる」と言う香山、の構図だ。
この価値観の差異は、例えば対談の収録部終盤において論ぜられる格差問題について、露わになる。格差について香山は、「こぼれ落ちた人」をセーフティネットで救うという発想をとるのだが、勝間の場合、そこはあくまで「教育」なのだ。おそらくそれは努力と言い換えてもいいだろうが、この対談を読む限り彼女の場合はどんな社会的弱者においても、教育を受ければ、努力を続ければ這い上がれるのだ、という強い信望を持っているようだ。


だが実際に対談を読んでみると、そこまで単純な構図でもなかったようだ。

勝間:私は、幸せの価値基準を他者に求める限り、幸せにはなれないと言い続けてきました。そして頑張り過ぎの状態は何かが異常だから見直してとずっと言ってきたんです。

えっ、そうだったんですか?
勝間の本を一読もしてない僕は、むしろ彼女の本にはヘタすれば「頑張って私みたいに這い上がれ、チェストーッ!!!」みたいなことが書かれているのだろうと思っていた。しかしこの発言を信じる限りでは、事態は全く逆らしい。ここで言う「他者」とは、例えば「かつまー」にとっての勝間和代自身なのだろうか。

勝間:私は頑張り至上主義ではなくて、むしろなるべく頑張らなくてもいい方法を探しましょう、と言っているんですね。だから<勝間和代>と「私」は違うのではないでしょうか。
香山:違うのかもしれませんね。(中略)勝間さんの本はもしかしたら一部で「誤読」されているかもと思うんです。「こうしなきゃいけないんだ」というように。

「<勝間和代>と「私」は違う」それはどういうことだろうか。
僕が想像するに、彼女は成功する前も成功した後も、ずっと変わらず「私」のままだったのだ。変わったのは彼女が脚光を浴びるうちにちやほやし始めた周囲であり、そのちやほやする彼らによって万人の眺めるスクリーンに投影されたものこそが、<勝間和代>という像なのではないか。すると香山のいう「誤読」というものも分かってくる。
勝間が伝えたかったのは成功までのプロセスであり、決して<勝間和代>そのものになる方法ではない。幸せなんて人の数だけあるわけで、幸せへのプロセスを知ったからとて、その人の望んだ形のそれが手に入るわけではない。どんなに過剰に<勝間和代>を頑張ったって、<勝間和代>みたくなれるかは誰にもわからないのだ。


…………………………

対談を勝間に好意的に読めば、彼女を目指して挫折し、結果的に不幸せになっていった女性(そういう人が本当にいるとすればだが)のその不幸せはみな彼女のせいだと責めることは、「濡れ衣」に近いものだろう。彼女がアナウンスしてきたのは「私、<勝間和代>みたいになりなさーい!」ではなく、「私の場合はこうしたら楽になりましたよー」なのだから。それは彼女のメッセージが歪められて読者に伝わっていたにすぎない。


しかし、「「何かを目指す人」は、自分に満足していないのでしょうか。自分はどうすれば満足かを探す「プロセス」を楽しめばいいのに、どうしてゴールばかりを見てしまうのでしょうか」と言う彼女はわからないのかもしれないけれど、多くの人間は前もって幸せのゴールとなる「モデルケース」というものをすでに「上がった人々」から提示されたがっている。なぜなら、目指すものが予め決まっている方が、なんだってやり遂げる気力が湧くし、達成した時の実感が沸くから。
そして彼女は、自分と似た境遇――例えば年齢だったり、子持ちであったり――にいる女性たちにとってのそのモデルケースに、幸か不幸かなってしまった。


その<勝間和代>が「誕生」して数年経ち、「エピゴーネン」ともいえる人たちが彼女の後ろには五万といるであろう現在。にもかかわらず、それでも彼女は自分に求められているものが、「私」の歩んだプロセス、ではなく、<勝間和代>になる方法であることに、気がついていない。

そんなことはないだろう。

知的な彼女のことだから、きっとそのことはうすうす理解しているはずだ。にも関わらず、対談中あたかもそのことに気付いていないと言うような態度をとり続ける彼女に、若干偽善的なものを感じ取ってしまったのは、僕だけだろうか。