いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

恋愛“弱者”、なのか?

所詮この世は色と金、ではないが、恋愛論というのはいつの世も盛んである。


僕もそういう営みには目がないのだが、だいぶ前、未だかつて自分に恋人がいなかったころに、それがずばり「なぜか?」と問うたことがある。顔の美醜や社会的ステータスの有無を度外視して考えた末のその結論を先取りすれば、それは僕を含む非モテの面々が「強すぎる」からである、という逆説的な結論にたどりついた。これはネタではなく、あながち間違ってもいないと思う。恋愛“弱者”という言葉とはまるで逆行しているが、モテない人間がモテないのは、弱いからではなく強いからではないか。


別に僕は、恋愛弱者と自称される方々をお前らは弱者なんかじゃねぇ!!、と罵りたいわけではない。そうではなくて、そもそも恋愛をそのように強者/弱者のスキームで語ること自体に、すごく重大な誤謬があり、その誤謬こそが非モテの人を非モテたらしめている、ように思えてならないのだ。


恋愛資本主義だとか、革命的なんたら同盟だとか、そういった言葉の使い方からは、あたかも世にいう恋愛が優勝劣敗の法則の盤上で成立しているかのような印象を覚える。だが少なくとも僕は、恋愛がそのような優勝劣敗の法則のみで成り立っているように語ること自体に、違和感がある。
優勝劣敗の法則で語れるということはつまり、恋愛が「所有の論理」で語れるということとほぼ同義である、ということだ。だがしかし、恋愛を所有として語れることは可能なのだろうか。僕は語れないと思う。彼氏にとって彼女は、彼女とって彼氏は、自己の持ち物ではない。お金持ちが周囲に女の子をあたかも所有物のようにはべらしているという状況はあるが、僕らはそれを原義的に“恋愛”とは言わない。


恋愛を所有で語るということは、つまり各主体は恋愛の(あるいは恋人の)所有者である、ということになる。しかし所有者は貨幣にしろ、商品にしろ、当の所有物を所有する自身については「変容」しないことが原則だ。ここにこそ僕は、一番の引っかかりを覚える。恋愛では、双方が双方の所有者たりえるだろうか。そうではないだろう。
例えば、「ずっと一緒にいようね」と約束し合った恋人たちがいるとする。その人たちだって、いつかは別れるかもしれない。そのことは、単に嘘つきだと言えるだろうか。そうではなく、「ずっと一緒にいようね」といった時の自分と別れるときの自分が、もはや別人になってしまった、という考え方だって妥当ではないか(もちろん、そこでは「ずっと一緒にいようね」と言ったときの「本気度」にも焦点が当てられるだろうが)。つまり、恋愛は変容を被らない所有者たちの遊技ではない。


では恋愛をどう定義するか。
僕が思うにそれは、他者から自己への介入と、その先にある自己の変容のことだ。そして他者の自己への介入は、その人の中に介入するための「空席」が生まれない限り叶わない。恋愛も、そこには生まれない。恋愛とは、そのように自己同一性をも投げ打ってなされるものなのではないだろうか。


ならばその空席とは、人の中にいつ、生まれるのだろう。僕が思うにそれは、その人が精神的に、あるいは肉体的に弱っているときだ。人間誰しも弱っているとき、他者から優しくあつかってもらいたいと願う。そして他者から優しいあつかいを願うなら手っ取り早い話が、自分から他者に優しくなればいいのだ。弱っているからこそ優しくなれる。その内的要求として分泌された優しさが、他者の自己への介入を許す。そこに恋愛の生まれる可能性が開けるのだ。


思い返せば、周りのモテる男というのは、どいつもこいつも優しかった。モテない男も優しいのは優しいのだが、両者の優しさにはその質において、根本的な違いがある。モテる男の優しさとは、いわば開放的なそれだ。ドアがすでに開いていて、しかもその向こうに広がるのは、こちらがまるで中へといざなわれているかのような優しさに満ちた空間だ。一方の非モテの優しさとは、優しいのだけれどどこか冷たいというか、予め自分と相手に境界線が明確に線引きされた後に示される優しさなのであって、どうも表層を上滑りしてしまう。


非モテ、そう自称する彼らの文章を読むにそれらは、自己同一性にひどく凝り固まっているという印象を残す。垂直下をずぶずぶと、地中深くまで掘り進んでいくような同一性。彼らは我が強すぎるのである。我が強いのは悪いことではない。しかし時にそれが、他者からの介入を妨げることに成りかねない。
彼らは「彼女がほしい!」と声高に叫ぶ。そんな風に表層的には「彼女」を欲していた彼らは、内的要求の位相においては、実は「彼女」という自己への介入者の存在を未だ「必要としていない」のではないか。


すると、巷の恋愛強者/弱者論の文脈も違った見方が出来る。恋愛を、複数のプレイヤーによる財貨収奪ゲームの文脈で捉える限り、僕らは他者に対して強くあろうとする。恋愛を他者から奪い、他者から守るために。だから弱くはなれないし、優しくもなれない。だが繰り返すように、そのように強くあろうとすること自体が、自分の恋愛の妨げになっている、ということもいえるのではないか。


そうすると、きっとこういう反論が返ってくるだろう。「いや、それはレトリックだ。恋愛という位相においては事実負け組なんだから、弱者となのってもいいではないか」、と。
いや、だからそういうことを言っているうちは、きっと恋愛はできないんだって。。