エイジフリーというのをご存じだろうか。エイジフリー、このようにカタカナで書くと分かりにくいが、「age free」と書くと判然とする。age=年齢、free=からの自由、という意味で、年齢による差別や偏見をなくそうという運動を意味する。具体的には、雇用と入口と出口において、求人の年齢制限、および定年制度の禁止が主な内容となっている。調べてはいないが、おそらくフェミニズムの中から生まれたエイジズム批判の文脈とつながっているのだろう、と思う。
これを知ったのは、最近こんな本を読んだからだ。
- 作者: 森戸英幸
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/04
- メディア: 新書
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この本は、エイジフリーを紹介しつつも、それを手放しに称揚しているとは必ずしもいえない。というよりも、政府主導で今なされつつあるそのエイジフリーのあり方に疑義すら唱えている。
なるほど、エイジフリーになれば定年がなくなる。求人年齢の上限を設けることも禁止される。しかし、企業の抱え込める社員数に変わりはないのだから、入ってくる人がいる限り、出て行く人も必要になる。筆者は、日本が世界にならってエイジフリーになれば、必然的に日本の企業は、理由の不透明な解雇やリストラが猛威を振るう「能力主義」に移行するだろう、というのだ。
この本の論旨に僕は概ね賛成なのだが、この部分には少し疑問が残る。エイジフリーになれば、絶対に能力主義に陥ってしまうのか?たしかに企業の数や、仕事の量が劇的に増えない限り、雇用される人数にも限りがある。しかし雇用者がそれぞれ仕事を分け合えば、その問題は何とかなるのではないか。つまりワークシェアリングである。仕事を分け合うことで雇用の絶対数を増やせれば、エイジフリーに移行しても、なんとか一元的な能力主義に陥ることなく企業はやっていけるのではないかと、思った。
いやいや、今日僕が書きたかったのはこういうことではなかった。
この本を読んでいるとき、ふと思った。世界的にもエイジフリーの趨勢にあるこの時代に、日本にはきわめて「エイジフリーレス」でかつ、雇用環境ほどにはエイジフリーレスの実情を問題視されていない空間がある。
それは大学だ。
もちろん入学における明確な年齢制限はない(あったら大変だ)が、事実上あるに等しい。言ってしまえば「精神的な年齢制限」が、大学には存在するのだ。僕を含む大多数の人は、義務教育機関が終わった次の歳には高等学校やそれに準ずる教育機関に入り、その中のさらに半数の人が、高校卒業後の割と早い時期に―卒業した来月というのが申し分ない―大学に進学する、というのが世間の常識になっている。逆に言えば、高校卒業してから大学に入るまでの期間が伸びれば伸びるほどほど、つまり年齢を重ねれば重ねるだけ、大学に入りその中で過ごすことには、精神的抑圧がかかる。まだまだ大学は、若い人のものなのだ。
浪人生という言葉がある。大学に一年入りそびれたら一浪、二年入りそびれたら二浪というようにカウントしていく(されていく?)ことになっているのだが、ここにあるのは「高校卒業後、進学希望者は出来るだけはやく進学するべき」というイデオロギー、いや、こんな堅苦しい言葉は使いたくない。思い込みである。
ちなみに僕には四浪もして大学生になった後輩が二人もいる、ゆかいなことに。ひとりは、言ってみればスタンダードな浪人生だ。四年間予備校に通い続け、やっとこさ五年目の試験に受かって大学に入学した、という彼だ。ところがもうひとりは、四浪とはいっても実質的には「四浪」ではないのだ。彼は高校卒業後、しばらく一人でアメリカに放浪の旅に出ていたり、地元でぷらぷらしたりと遊んだあげくに、そろそろ大学にでも入ろうかなと高校卒業から数えて4年後に受験勉強に着手。その末に大学に入ったのだ。彼の場合、計算すればそれは大学に入るのに4年間かかったことになるわけだが、その内実においては前者とはまるでちがう。にもかかわらず、それらを一緒くたに四浪とするのは、少々かわいそうな気がするのである(本人はかわいそうに思っていないのかもしれないが)。要は、大学に入るまでの道のりの多様性が、ここで奪われているのだ。
率直に言って、僕はこの状況が大学の内側にいる人にとっても、外側の人にとっても、不利益になっていると思う。
考えてみればわかることだが、大学というのはひどくバイアスのかかった、特殊な空間だ。なにしろ、○○大学という時点でそれは、「○○大学に入れる程度にお勉強のできる人たちを集めた集団」なのだから。もちろん勉強だけがすべてではないがそれでも、就労していてもおかしくない年齢の若者たちだけが、かっ歩したり、自治会で政治的な演説をしたり、お茶したり、スポーツに勤しんだりしながら、うじゃうじゃそこにはいる。この少子高齢化の叫ばれる今の時代に、数少ないはずの彼ら若者のみが一箇所に集められ集団生活をしていること自体、外の世界からすれば十二分に特殊ではないか。そして、そんな特殊な現場で、「科学の客観性」や「人類普遍の倫理」なんてものを学んだり研究したとしても、その外に出たとき、「習ったのとちがう!?」となるのが、必然ではないか。
高校までのクラスという単位を動物園の檻と例えるならば、大学というのはサファリパークに近い。証拠に、高校まではいじめがあるが、大学ではいじめが表面上は起きていないように見える。それは、高校ではいじめる者といじめられる者が同じ狭い檻に入れられていたのに対して、サファリパーク的な大学では、いじめられる者も逃げられるように開放性が確保されているからだ*1。
だがここでいいたいのは、檻としての高校から何十、いや何百倍も拡充されたサファリパークでさえ、それは「隔離されている」という意味では、実は高校と変わりない。いったい何を考え、何をしでかすかわかったもんじゃない「野生の動物」という名の社会人と、そんな彼らが営む何が起こるかわかったもんじゃない「野生の王国」という名の社会が、その外には広がっている。
「広がっている」って、お前だって大学の内部の人間ではないか、ですって?ごもっとも。しかし聞こえてくるのだ、僕の耳にも。大学の出口から先頃出て行った仲間たちが、戸口まで戻ってきて伝えてくれる「習ったのとちがう!?」というその状況を。
だからこそ、僕は大学がもっとエイジフリーになっていけばいいのに、と思ったのだ。これは制度の問題というよりも、発想の転換という問題の方が大きいと思う。大学は高校卒業後、すみやかに入学すべきものではなく、本来は勉強したい人が勉強したい時に通うものなのだという、発想の転換。すでにそれを実践しているのが放送大学なのだろうけど、これから子供の数が減っていく時代、「若い人向け商品」としてだけでは、どこの大学も経営的に苦しくなってくるのは目に見えている。
それに大学というのは、基本的にだだっ広い。下手すると森林公園と見まがうほどに草木が茂り、緑が広がっている。そのような場所を、若者だけが占有するのはもったいない。やがては老若男女が集う庭園のようなものに、移行していくべきなのではないか。もちろんこれには、最近ますますうるさくなっている「セキュリティ」の問題が絡むだろうが、それでも大学で「カルスタ」や「ポスコロ」を学んでいる人ならば、そういった異種混交的な空間を賛同しても、まさか否定はしないだろう。
だがしかし、そうなると今度は就職という壁にぶち当たる。
先の四浪の後輩に聞いた。就活のエントリーシートの生年月日を選択するとき、たまにプルダウンの項目に自分の生年が無かったときの虚しさは、なかなかのものらしい。大学にいくつになっても入れるような土壌があっても、社会に戻っていくとき、そこに就職先がなければしょうがない。
そうなると、必然的に雇用の入口におけるエイジフリーの必要性に行き着く。いつでも大学に入れる環境を作るには、まずいつでも就職できるエイジフリーな社会が必要なわけだ。
*1:もちろん大学でもいじめがないわけではない。部活、サークル、ゼミ、研究室、はたまた教授会というのはいわゆる「檻」なわけで、そこに入れば当然いじめが発生する可能性はある。