いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

解放の距離―そう考えると、勝間和代も益若つばさもちがいはしない

前の日記

フェミニズム、というかその他具体的な抑圧からの「解放」の運動全般について、前々から構造論的な問題として言いたいと思っていたことを、ついでながら書いておきたい。


解放というのを一元的にではなく、多層的に把握すべきだ。つまり解放とは、人によってその度合いというか、その措定する「距離」が、実は違う。最大値の解放もあり得れば、最小値の解放だってあり得る。その両者には隔たりがある。
解放されるのが女性の場合、つまりフェミニズムについて考えれば、その「最小値の解放」とは何だろうか。それはおそらく、既存の社会が女性に課していた政治的、経済的不平等の是正、さらに社会通念的抑圧からの解放これである。それは有り体に言えば、解放の「インフラ」であって、おそらく全ての女性がその不平等の是正や、抑圧からの解放には「反対」はしないだろう*1


問題はここからである。上のインフラ的解放とはフェミニズムの文脈に即して言えば、家父長制つまり「家からの解放」、女性の社会進出ということになるのだが、ここで重要なのは、「家からの解放」がイコール「家からの疎外」ではないということ。つまり、「家からの解放」の後でもなお、「家への滞留」はオルタナティブとして存在していいし、存在するべきだということだ。


何が言いたいかというと、ある種の解放運動が先鋭化していくと、人々は常にその最先端の思想や考え方を受け入れなければならない、という錯覚に陥ることがあるのだ。社会進出のものさしにおいては、確かに女性で子どもがいて管理職で評論家で、という某スーパーレディーは、最高到達点と言えるほど、抑圧から遠くにいるのかもしれない。
ただしかし、「女性の解放」は「男並みに働くこと」と同義ではない。スーパーレディーは、はたしてすべての人が目指さなければならないものなのか?そこには、また別の抑圧が待っているのではないか?


というのも先日、こういう増田さんを読んだ。

私は東北の田舎出身で、主婦である母の立場の低さを見てきたので、男に負けないように負けないようにと思って生きてきた。

もっと言えば、「なんで出席番号は男子のほうが先なんですか」と教師に聞いたりするような、本当にうざい子供だった。

それでしこしこと勉強して、いい大学に行って、なんとか有名な企業に入ることが出来た。

女もずっと働いていかなきゃいけない!と思っていたし、書くのがちょっと恥ずかしいけれど、今もアエラとか勝間和代とか読んでいる。

まあそういう系です。

ただそんな私が、結婚によって、いとも簡単に「仕事辞めたい」と思うようになってきた。


仕事やめたい

やめちゃえばいいんですよ。いや、もちろん辞職しても経済的に成り立つのであれば。
もしである。もしも元増田さんの「仕事は続けたい」という意志が、「仕事が好きである」ということや経済的困窮というつっかえ棒ではなく、ただの自分らしさやイデオロギーといった心許ない柱のみによって支えられていた頼りないものであるとすれば、はっきりいってそれは不幸なことである。


最前線に立つ者、「解放の旗手」というようなものは、得てしてエピゴーネンにとって魅力的だ。いや、そもそも魅力的だからこそ、エピゴーネンが付いてくるわけだ。ただ、そうすることで少なからず生きづらさを感じている人は、従軍の中に立ち止まってでも、よく考え直した方がいい。「はたして自分は、そこまでいくべきなのか」を。
インフラとしての解放を超える、「その先の解放」は得てして、人それぞれの持つ能力、価値観、もののとらえ方によっては、解放でもなんでもなくなる、ということがある。勝間に憧れ、彼女のようになりたいという女性がどれくらいいるのかは、わからない。わからないが、そんな人たちが「勝間的」だけが女性の「答え」であり、それ以外の、例えば家事という金銭の発生しない労働に生きる女性を過去のものであり劣っている、と見なすのだとすれば、それは間違いだろう。
憧れの同性としてのモデルという見方をすれば、一般女性からは勝間和代は例えば益若つばさとも等距離にいるのだから。



小林よしのりはマンガを政治的主張に利用している点、戦中のプロパガンダと同じ危険な香りがするし、彼のマンガのような政治主張としてのそれの出現を端緒として、僕の通う大学でも例の不気味なアニメ画の政治主張のポスター貼られまくっているので、一概に彼を支持したくはない。しかし、彼が薬害エイズの市民活動にコミットした後に、参加していた若者たちの間で市民活動そのものが自己目的しいく過程を眺めた上で、そこから離脱していったということを訊くと、そこにはシンパシーを覚える。


解放とは、抑圧に苦しめられる人が現状を打破するために行うものだ。だが常に解放と前進だけが正しく、少しでも「未解放」な部分を残すのが正しくないとは、必ずしも言えない。それに解放ありきで突き進めば、きっとまたその解放のあり方に不満を抱く反解放という流れを生み、不毛な衝突を起こす。

*1:注意すべきは、この解放のインフラが時系列的にみて、必ずしも最初に解決されるというわけではないということだ。未だインフラが整っていないという現実は、あってもおかしくはない。