いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

不可能なことほど羨ましい

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090610-00000002-president-bus_all

これを読んで、斎藤美奈子の初期の秀作を思い出した。

妊娠小説 (ちくま文庫)

妊娠小説 (ちくま文庫)


妊娠を扱った小説を「妊娠小説」と定義した文芸評論集だ。本として、非常に面白く、飽きさせない魅力的な本だが、その本の中で論じられることと、今回の“事態”との興味深い類似が見いだせる。

斎藤は戦前戦後の「妊娠小説」を読み解くうちに、そこにある「断絶」の存在を発見した。戦前の作品では、身ごもった当の女性は堕胎、要するに子どもを産むことを拒むのである。それに対して戦後の作品では徐々に、女性がその子の出産を望むようになるのだ。この戦前と戦後の断絶の間には、いったい何が潜んでいるのか。

ずばりそれは、中絶が罪から女性の権利へと変わった、ということによる断絶である。


ものすごく簡略化していえばつまり(たぶんおそらく、斎藤もそう書いていたという記憶があるが、手元に本が無いため大意)、中絶が出来なかった戦前の女性は子どもを(合法的には)堕ろせないがゆえに堕ろすことを望み、一方戦後の女性は中絶できるという余地がありかつ、相手の男にもそうするよう望まれたために、出産を希望した。これが指し示しているのはつまり、ある種の願望は、選択肢の希少価値の大小によって決まるという力学だ。人間誰しも自分にないもの、自分にはできないことほど強く欲する。羨望とはそういうものである。


現代の女性にとっての最も重要な人生の選択の一つは、仕事か家事か。
かつては「女性の解放」の輝かしい象徴であったはずの就労による「自立」は、今や当たり前のことであるし、むしろ仕事しなければ女とて食ってけないという日本の晩婚化・非婚化の状況下、悠々自適な専業主婦ライフを楽しむことこそが、貴重になっている。男だって女だって、そりゃ働かんでいいならわざわざ働かないのである。おそらくそこに、エリートかそうでないかは関係ない。

しかもである。この潮流は、フェミニズムがドドドと通り過ぎた後に起きているから、彼や夫の側にもかつての「私作る人、僕食べる人」的露骨な性役割分業意識が芽生えにくい(まだ多少の“勘違い”はあるだろうが)。巷ではやさすぃーやさすぃー草食系男子がもてはやされているような時代だ。場合によっては家庭が、女を縛る牢獄なでではなく、従順な羊の帰りを待つ小ぎれいな飼育小屋にだってなりうる。そういった意味で、内田樹が言うようにフェミニズムは終わったがしかし、その功績は十二分に遺されている。


なんておいしいんでしょう、専業主婦ライフ。