いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「私」を生成するブログ、「私」未満を吐露していくtwitter、そして文章はあなたであってあなたではない

ブログを始めたいです。

twitterにハマって一年、140字で伝えられない事にやっと気づきはじめた。

一応はてなの垢もあるし、さあ始めよう、と思うにもtwitterほどパッと始められない。

一日かけて、まだはじめての投稿の内容に手間取ってる。

特に目的があってのブログって訳でもないし…

だれかブログの第一稿にどんなこと書けばいいかとか、ブログを書く上で最低限気をつけておくべき事とか教えてくれ!
http://anond.hatelabo.jp/20090507145053

たとえば夏目漱石は、英国留学をきっかけにわずらった神経症がつらくて、いくらか安らぐということで小説を書き始めたという。自分の思うようにいかない現実だけを生きるのはつらすぎる。一時の逃げ場として、彼は原稿用紙の上に彼だけの空想の世界をこしらえたのだ。そこには彼特有の、書くことへの「やむにやまれぬ理由」があった。彼は書きたかったのではない。生き延びるために書いたのだ。

しかし―これは最近の僕自身の書くペースへの戒めも込めてなのだが―どうもブロガーというのはいつしかその書くための「理由」と書くという「手段」が転倒していくよう思える。いや、書くことが自己目的化している、と言えばいいだろうか。そのことについてはつい先日書いた。それはブロガーがブログを続けているうちに、いつかははまる隘路なのだろう。
だが、ブログをまだはじめていない人にさえ、「書くことがないけどブログをはじめたい」という欲求があるというのに気づかされると、「ついにここまできたかぁ」と感慨深いものがある。別にこの「ここまできたかぁ」は、あきれでも憂いでもなく、単に状況の進展の勢いのようなものを知ったときの驚きのそれだ。


そのブコメ

何故目的もなくブログを始めようと思えるのか本当に不思議なんだが。「何かしら書きたい」というものでもなく? つーか別段書きたいこともないのなら書かなきゃあいいじゃないか。
id:y_arimさん


ごもっともである。おそらくそうなのだろうけれど、「書きたいこともない」のにかつブログをはじめたいということは、この元増田さんをブログに駆り立てる理由が、「文章の内容」とはまた別にあるということだ。最近僕は文章を書くこと、特に主語を「私」として文章を書くことには、そこに書かれている内容を伝えるということ以外にも理由があるのではないか、という気がしている。そして僕が考えるその理由とは、「『私』の生成」である。

■書いている私と、書かれている「私」は、実はちがう


ブログというのがウェブ上の日記、という通俗的な解釈を許してもらえるのであれば、それは主語が「私」(僕の場合は普段一人称は「僕」だが)で始まる文章の総体と分別してよいだろう。そして、文章において「私」の内面を書き綴るということは、首尾一貫した「私」を組み立てる行為であるとともに、実は「その他の私」を捨てる行為でもあるのだ。どういうことか。
今モニターを目の前にしてキーボードを叩いている「生ける私」とは、ブログ上に存在する「私」と実はちがう。これはブログだけには収まらないが、文章というものは基本的に論理的、単線的かつ時系列に進行する。文章という形式自体が、例えるなら数字の1から100が、1から始まり100で終わるものなのである(もちろんそれは、読み手が1から100まで順に読んでくれたらの話ではあるが)。畢竟、文章において「私」の内面を語るということはすなわち、その「私」の内面も、論理的、単線的に時系列に進む一本の線としてできあがる、ということを意味する。


それに対して、日常生活を送る僕らが、実際に抱く「内面」(感情と言ってもよい)というのははたして、論理的、単線的に進むのだろうか。例えばある人に対して僕らの中では、愛しいという気持ちが湧き、それが冷めるのを待って初めて、憎いという気持ちが生まれてくるのか。


実は、そうでなかったりする。


実際の僕らの内面とは、あまりに非論理的な代物である。それはカオスと言っていい。日常で出会った出来事に対して、人物に対して、僕らの内面においては「喜怒哀楽」の四択の感情が、毎回ひとつずつ生まれているわけではない。日常では、自分でも名付けようのない情動が同時多発的に入り乱れ、巻き起こっているのであり、どれが自分の真意なのか、実は自分自身でさえわからなかったりする。要は、実際の内面とは「多声的」なのである*1
文章という形式において、そんな内面を書き記すということは、内面が本来持つその非論理性や多声的、カオス的な要素を「捨てる」ということを意味する。つまり「私は」から始まり「思った。」で終わる文章というのは、「ブログに書かれた『私』」を論理的な同一性を保った一存在としてこの世に生成しているのと同時に、「ブログに書かれなかった『私』未満」なるものの感情の束を捨てている行為でもあるのだ。実は文章において書き手の「私」というのは、この取捨選択した上に成立する、可能性として存在した多数の「私」の中のひとつに他ならない*2

■「私」未満を吐露するtwitter、「私」が遠ざかるブログ


ここで指摘したいのは、書く私と書かれた「私」のおもしろい逆説である。
長い文章は―ここではtwitterと比較してのブログなど指しているわけだが―それが長くなればなるほどそこに綴られる「私」と、実際の私との偏差は大きくなっていき、「私」の独立性が高くなっていく。僕らは自分の内面を文章で、より詳しく、より詳しく語ろうとすればするほど、哀しいかな実際の私と書かれた「私」の隔たりは埋まることなく、むしろ深まっていくのである。要は、文章上の「私」のキャラが立っていくのだ。

反対にtwitterというのは、わりと短い文章による呟き的なコミュニケーションでありかつ、「私」という主語すら書かなくてもよいのだろうから(というか書いていたら字数が埋まっちまう)、いわば「私」を生成しないツールなのだ。もっと詳しく言えば、それは「私」未満の感情や情動が吐露される場なのである。twitterと同様に―僕はtwitterユーザーが「彼ら」と同じだ、ということ言いたいわけではないことは、予め理解しておいていただきたいのだが―ネット上にはびこる荒しや叩きの類の書き込みは、文章として短い上(というか文章にすらなっていない場合もある)、おそらくは書き手が脊髄反射的に感情を書き残した遺物だろうから、それらも「私」未満だと言える*3


毎度うちをごひいきにしていただいているid:ululunさんは、「”ブログはtwitterより敷居が高い"という事実が”ブログはtwitterより敷居が高い"という説明より先にあるのではなく”ブログはtwitterより敷居が高い"という説明によって”ブログはtwitterより敷居が高い"という事実が生み出されていく」という理説を説かれている。おそらくそれは間違っていないのだろうけれど、その言説が言説として一人歩きする最初の段階において、「ブログはtwitterより敷居が高い」と実感した人が存在したはずだ。


その「ブログはtwitterより敷居が高い」という実感が生まれた理由。つまりtwitterとブログの違いとは何だろうか。それは当たり前ながら書く文章の長さだが、ではなぜ長くなると書きにくくなるのかというと、それはこの「私」の問題に行き着く。
twitterでは同一性を保つ「私」を生成する必要がないのに対して、ブログを始めとする長文においては、文章の中で「私」という首尾一貫した同一性を保ったキャラを創り上げなければならない。実はこれが意外とネックなのではないだろうか*4

■そして最後に元増田さんへ

ブログというものを開設する以上、先に書いたような荒しやネガコメの類に出くわすことは避けられないだろう(幸い僕はそれらしいそれにはまだ遭ってないのだけれど)。同じ増田に、以前こんなことを書いていた人がいた。

数ヶ月前から荒らしコメントがちょこちょこと入る。炎上しないように言葉遣いや内容には気を使っているし、他のコメンテーターの人は好意的なので、なぜそこまで執拗に叩きコメントをされるのかが何度考えてもわからない。多分私に非はなさそうだけど、元々自分に自信がなくて小心者だからか、その得体の知れない悪意にストレスを感じている。さらにプライベートでキツいことがあって疲れた心にジワジワと侵食してきてモヤモヤが続いている。閉じたら負けかな。だけどブログを書く楽しさよりもストレスの方が大きくなってきたからなー・・・。

http://anond.hatelabo.jp/20090326181549*5

このように思い悩み、あげくブログを閉鎖される方々がいるのだとすると、それは残念なことだと思う。ただ、もしそういうことを思い悩んでいる人がいるとすれば、今日書いたことがある種の処方箋になるのではないかと思うのだ。

批判を受けているのは、文章上の「あなた」であって、あなた自身ではない。
これに尽きるだろう。

事実それが「あなた」であったとしても、それはおそらくあなたの中で、たまたま文章として一本の線になった一部分に過ぎない。


元増田さん。ブログを開設されたのでしたら、ネットの海のどこかでまたお会いしましょう。

*1:この多声的というのは、非人称的と言い換えてもよい。つまり精神分析で言うところのesだ。

*2:もちろん、今文章のなかでいっちょまえに語っている「僕」も、キーボードを叩いている僕自身とは少なからず違うわけだよ。毎度のことながら、この脳のカオスがなかなか思うようにまとまらん!

*3:くれぐれも注意してほしいのは、「私」を生成するブログに対してtwitterは「私」を生成できないから劣っている、と言いたいのではない。言いたいのは両者には「そういう違いがある」ということだけだ。

*4:この「同一性」という文章を書く上で僕らが考える最低限の掟さえも破壊してしまったのが、たとえばモダニズムの作家ジェイムス・ジョイスの小説『ユリシーズ』など。

*5:開いてみたら、もう消されていた!!!