いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

増田はわかってもらえない、可哀想なやつなんだ

アノニマス・ダイアリー、通称増田についての話なんだけれども、その記事の内容を分けていくと、ライフハックやネタ記事などのほか、やはりもっとも多いのは匿名という機能ゆえか、ごくごく個人的なエピソードを書いた文章なんじゃないだろうか。

さらにその中でも、ごく個人的であまり経験を共有できないタイプのもめ事に巻き込まれたことの顛末をしるし、無意識に元増田が「共感や賛同を求める記事」というのがある。


「共感や賛同を求める記事」というのは、別に元増田が書いているわけではない。例えば、トラックバックブコメなどでツッコまれたりおちょくられたりして、プッツンきたのだろう。再び「降臨」してきてレスの一つ一つをバカにして去っていく。そういった一部始終を見て事後的に、僕がそれを勝手に「あ、これは「共感や賛同を求める記事」だったのか」と思っているだけだ。


もちろん、共感や賛同をされまいと、そうやって文章にしたためることによって生まれる遂行的な価値というものを、僕は否定しない。書くことそのものによって元増田氏が得る「癒し」の効果はあるのだろう。
だが、端から見ているとどうも、ストレスや怒りをため込んだ末にあそこに書いた上、そこでもわかってもらえないということからさらなる負のエネルギーを充填していってしまう人も、少なからずいるんじゃないだろか。

それはなぜだろうと考えると、まず一つには「読んでレスする側にそもそも親身に寄り添ってやる気がない」ということもあるだろう。トラックバックの増田たちがけんか腰だからだとか、はてブのあのスノッブぶりも原因として少々あるだろうけれど、一番の理由ではないのだ。



端的にいうと、元増田だけが状況を「知りすぎている」ということなのだ。それは対等の対話のようでいて、実は「出来レース」なのだ。
これは当たり前の話で、元増田は世界で唯一、くだんのもめ事を「経験」した「当事者」だ。そんな唯一無二の経験者である元増田の彼/彼女と、それを文章でしか伺い知ることできないその他の人間の両者の間には、初めから絶対的な「情報格差」が横たわっている。そして、その格差を担保に元増田には「私だけが知っている」という確信がある。そしてその確信のある元増田にとっては、己だけがこのことについて何かを訴えることのできる「絶対的被害者」であり、その他の見解は認められない。そんな「絶対的被害者」の「怒りの声」に、当事者でないものたちは口答えしてはならないのだ。


だが、現実にはそうはならない。共感や賛同をする人はあれども、たいていは「どっちもどっちでしょ」だとか「でも元増田にも〜〜〜なとこあるんじゃね?」だとか、元増田を「絶対的被害者」に祭る雰囲気にはほど遠い。


そのことが、もともと元増田の中にあり、増田に書くという行為として現出した「被害者としての攻撃性」を増幅させる。
モニタ上のそれら赤の他人の「わかってない意見」を眺めるにつれ、元増田は拳をわなわなと震わせながら、「お、おおお前らになにがわかる」とさらなるストレスないし怒りをため込んでいく(推測)。また、そういう「なにもわかってない」レスポンスによって、今日自分の身に起きたくだんのもめ事のおぞましい光景がフラッシュバックし、相手の人間のおぞましい表情がフラッシュバックする。そしてさらなる確信を深めるわけだ、「いや、やはり私は正しくて、ここのやつらはなんもわかっちゃいない」と。



これはでも、仕方ないことなのだ。元増田が状況を伝えるために駆使できるメディアは文章しかない。我々はこのとらえがたき現実を、文章だけでどれだけ他者に伝えることができるだろう。そんなもの微々たるものなのだ。

現実を経験した元増田がそれを文章にしたためても、そこに書かれた「現実」には当然「余白」が生まれる。読んだ他人が、その「余白」の部分を「この世で最悪なるもの」で埋めることも、反対に「この世で最善なるもの」でも埋めることも、それは自由にできてしまう。畢竟、元増田が伝えようとする窮状する現実と、読み手が受け取った「現実」はすれ違っていく。元増田の「絶対的被害者」の地位は、本人の知るよしもないところで揺らいでいくのだ。


だが、こんな複雑怪奇な社会において、「絶対的被害者」というのはなかなかあり得ないんじゃないかとも思うわけだ。もちろん古くは黒澤明の『羅生門』を挙げられるが、特に近年の『悼む人』あたりからだろうか、複数の登場人物の視点から同じ現実を書くという手法の通俗小説が増えているように見えて、そういった潮流の背景には「人それぞれ、考え方はちがってくるよねぇ」という経験知のようなものが社会で共有されつつある状況があるんじゃないかと、感じるわけだ。でも、僕のような赤の他人が挟んだこういった見解も当然、この世で唯一の「体験」をした「絶対的被害者」である各元増田の逆鱗に触れることとなるのだろう。



ではこれは、例えば元増田の文章力が上がれば解決する話なのだろうか。より表現力豊かに「現実」を縁取ることができればすむ話なのか。おそらくそれにも限度があるだろうし、なによりも本末転倒なのは、匿名じゃないと話せない怒りだということなのだ。実名をあげてこうこうこういうやつで、こんな酷いことをするのだとカミングアウトすればいい話だが、それができない状況だからこそのアノニマス・ダイアリーだったんじゃないか。


だからね、結局ムリよ。増田で「共感や賛同を求める記事」を書いて目論見どおりのものをそこから得るということは。今ではTwitterなんてのもあるわけだしそっちでやればいいし、この増田というものはもう書き捨てでそれ以上求めないというのが、一番ストレスレスな生き方なんじゃないだろか。