いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

言説についての覚え書き

先日言説を通して腐女子についていっちょまえなことを書いたのだが、思ったほど、というか全然全くうんともすんとも、腐女子(と自負されている方々)から反応がない。僕としては、これが腐女子問題(そんな問題があったとすればの話だが)の最終解決だろうと思っていて、これ以降「オタク原理論」、あるいは「腐女子生態論」などをぶち上げ、「オタク/腐女子についてとやかくいう人」はいなくなると思ったのだが(釣りではなく意外とマジに)。

まあそれはいい。この言説についての付け足しを少々。


この言説という概念、実はそうそう簡単なものでもない。

よくよく考えてみれば僕らの周りは、実は言説だらけなのである。先のエントリーで僕が書いた「事実が説明より先にあるのではなく、説明によって事実が生み出されていく」という定義に当てはめると、それこそそこら中にあるもののそのほとんどが、言説によって機能しているということがわかる。


「貨幣」は言説であるし、「大学」だって言説だ。「性別」だって「家族」という概念さえも、そして昨日のエントリーの議論をつきつめていけば「私」だって、みんなみんな言説なのだ(アルチュセールはそれを「国家のイデオロギー装置」とよんだ)。


ここで僕らが立ち止まって考えなければならないのは、言説について僕らが考えるとき、何が重要なのか、ということだ。それは「何が言説であり何が言説ではないのかを見極めかつ、言説からいかにして自由を見出すか」なのだろうか。僕は必ずしもそうではないと思う。

僕らが「社会」という言説の集合体を生きている以上、言説から「支配される」こと(言説をもともとあったものかのように信じ込まされること)を免れることはできない。僕らにできることは、「僕らがその言説にどのように絡め取られているかを吟味しておくこと」、言い換えればその「言説と自分との距離感を把握しておくこと」に他ならない。そして僕に言わせれば、オタク/腐女子の方々は、その「距離感」にあまりにも無自覚すぎる。


少し以前に、「家族」の問題についての本*1を読むフェミニスト系の読書会に呼ばれた。先に書いた通り「家族」は言説であり構築物である(動物界には、子が生まれても「父―母―子」という家族を形成しない種はいくらでもいる)。そして「家族」という枠組みが人類史上長きに渡り、女性を社会的に、経済的に、性的に、精神的に支配してきたという歴史も、僕は知っている。しかし、だからといって「家族」という言説をなくしましょう、家族という「制度」をとっぱらいましょう、ということになるのだろうか。そんなこと本当にできるのだろうか。
繰り返すが、「家族」とは生物学的に宿命づけられた本質的なものではない。構築物である。しかし、構築物は構築物でもそれらは、かぎりなく「本質的」なそれに近い「構築物」なのである。現に、その会では「家族」からいかにして自由になるかが話し合われたのだが、最初みな一般的な「家族」について話していたにもかかわらず、結果的には、自分が生まれた時からそこにあった「自分の家族」とそこで培われた「家族観」に依拠することになってしまった。


僕らは言説という呪縛にかかっていることをたとえ自覚していたとしても、それを自ら取り払うことはできない。それは不可能だ。僕らにできることは、自分たちがその呪縛にどのように絡め取られているか、その「絡め取られ方」を慎重に見定めていくこと。変な言い方をすれば、「言説に騙されていることには常に気づいていること」、それぐらいなのである。
そしてそこからしか、新しい展望は生まれない。

*1:

ファミリー・トラブル

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