いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ネットで「死ね」と書けない理由

珍しくナイーブなこと書いてしまいそうなんだけれど。こういうエクスキューズをしてる時点でナイーブでないのかもしれないんだけれど。


2013年現在も梅田望夫の言っていたような輝かしいインターネッツはやはり訪れず、今日もネットでは人を罵倒する言葉が増産されている。中には「死ね」というのもあるわけだ。
ここでいう「死ね」とは、「氏ね」とか「タヒね」とか「死ねばいいのに」とかも含めてだ。なぜなら、それらは「死ね」を表す暗号であるにすぎず、結局それを書くことで言わんとしていることは「死ね」と書くこととなんら変わらない。


たぶん僕は一度も「死ね」と書いたことがない。でもここで書きたいのは「いい子ちゃん」アピールではなくて、じゃあなんで自分は「死ね」と書かないんだろうということの方であって。

このAmazonレビューって伊藤計劃が書いたの? - 本読みのスキャット!

伊藤計劃がかつて書いたアマゾンレビューの話。もちろん当のレビューの内容は見事なのだが、それ以上に、10年以上も前の書き物がこうも簡単にひっぱりだされてくるインターネッツに妙な感慨を覚えた。

ネットでは昨日書いたことも、10年以上前に書いたことも、全く同等の状態で「今」表示される。
伊藤計劃の件に関してそれは、わりあいポジティブな意味合いで作用しているけれど、「死ね」に関してはどうだろうと思うのだ。


「死ね」とは、きわめて強く、ネガティブな他者への感情だ。それがそのままずっと残り、誰かにどこかで検索されれば、その都度「死ね」として表示される。

もちろん、自分のブログならば消せる。でもそれは理論的に可能というだけであって、現実的には多くの「死ね」は消されないまま残っている。
また、Twitterなどでもこれは同じ。よく、ブログがストック型であるのに対し、Twitterはフロー型と呼ばれているが、この二分法は理念的なものに過ぎない。
Twitterがフロー型といっても、昔の書き込みが"閲覧しにくい"だけにすぎない。手間をかければ読むことができるし、また、TwilogやTogetterなどの外部サービスが、ストック型の情報として成立させてしまう。Twitterとて完全に書き捨てというわけではない。
結局「死ね」は自ら否定しない限り、「死ね」として生き続ける。


もし自分が誰かへ「死ね」と書いたとする。そしてその「死ね」を、5年後10年後に誰かに読まれたとする。そのとき、ぼくはたぶん、相手に対して「死ね」という感情をすでに持っていない可能性の方が高い。それぐらい本気で「死ね」と思い続けることは、非常に困難な営みだからだ。

にもかかわらず、5年前10年前に書いた「死ね」によって、ぼくは誰かに「死ね」と言っていることになっている。削除でもしない限り、ぼくは5年後も10年後も、まるで昨日のことのように相手に「死ね」と言い続けることになる。
たぶんこの「今のぼく」と「死ね」とのギャップを、看過できないんだと思う。だからこそどんなに批判すべき相手であっても、「死ね」とは書かないわけだ。