いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

都会育ちほど都会に疎くて、地方育ちほど都会に詳しくなるという逆説―東京という「想像の共同体」をめぐって―

都会/地方論でおもしろい話を後輩から聞いたことがある。
その娘は神奈川生まれの神奈川育ち。根っからの都会っ子であり浜っ子というやつだ。しかし彼女、実はあの「山下公園」に一度も行ったことがないらしいのだ。山下公園というと、あのベンチが横一列にドドドッと並べられ、暗くなってくるとカップルがどこからともなく現れぶちゅちゅっとおっぱじめることで有名な、かの山下公園のことだ。全国的にも、そういう意味では「メッカ」であることが知れ渡っているはずのその山下公園に、いったことがないというのだ。さらにその娘は、みなとみらいにも、大学の行事で訪れたぐらいで、私的にはほとんど訪れたことがないと申す。

彼女に言わせれば、家族で行くというのにもそういった地元の名所というのは「観光地にしては近すぎる」のだ。そして、これは彼女の実体験以上のものではないが、少なくとも彼女の周りでは彼女を含む都会から都会の大学に進学した「都会組」よりも、地方から都会の大学に進学してきた「地方組」の方が、都会に関する土地勘がある、というのだ。

地方民の僕ではあるが、実体験としては残念ながらこれには当てはまらない。就活が始まる3年後期まで目と鼻の先にある横浜駅を、おそらく数回しか利用したことがない極度の出不精の僕は、おそらく「例外」として認めてもらえるだろう。しかし、他の地方組の学生にとっては、このことは不思議ではないと思うのだ。


地方民が冷遇されているのは、何もアニメの数だけではない。テレビを始めとするメディアでは、さも当然のごとく「渋谷」「新宿」「池袋」といった地名が飛び交っているが、地方民からすれば何のこっちゃさっぱりわからない。ここには、地方と都会のいわば、「東京実体験格差」があるのだ。
地方民の子どもなぞ、地理マニアでもない限りどういう位置関係になっているかわからない、「渋谷」「新宿」「池袋」「浅草」「品川」などの地名が、ブラウン管の中で連呼される。このようにして、僕ら地方民は東京を、メディアを通した巨大なイメージの総体として、まずバーチャルに体験する。そして実在のともなわないイメージは、時に暴走する。少なくとも僕の中で東京は、一部の巨大な「渋谷」「新宿」「池袋」「浅草」「品川」「川崎」(これは当時ヴェルディ川崎があって、「ヴェルディのホームはきっと東京だろ!?」という憶測が生んだミス)とあと微小の「その他」で構成された、「想像の共同体」(@ベネディクト・アンダーソン)の域をでなかったのである。「東京の実体験」の不在が、イメージの膨張をも生んだのだ。

それだけに、僕が関東に来て衝撃を受けたのは、「渋谷って、意外とちっちぇえじゃん」ということ。
もちろん渋谷「区」としては、それなりに大きなエリアではあるが、メディアの通して学んだ「幻想の都市・渋谷」は、「渋谷109」があって「西武百貨店」があって「パルコ」があって「スペイン坂スタジオ」があって川中島の合戦のような光景が繰り広げられるあのスクランブル交差点があってという、数多のイメージの集積によって描かれたセンター街のみのことを指していたのだ。ところが実際は、少し歩けばメディアでは「原宿」として記号化された地名にすぐさま変わってしまう。別方面に足を伸ばせば、またメディアで流布されている「恵比寿」という地名に変わってしまう。現実の渋谷センター街とは、ごくごく狭い地域なのである。
僕は、「実在としての渋谷センター街」とメディアが子どもの頃から僕に散布し続けてきた巨大なイメージ「幻想としての渋谷センター街」の、規模のあまりに落差に驚いてしまったのだ。


ラカンは「女は存在しない」と言った。しかしその「女」とは、実在する、生物学的な女という性を指しているわけではない。それは、男たちの欲望の対象となる「幻想としての女」だ。言ってみれば、僕らが「実在としての女」を追い求めるその行動は、彼女らと「幻想としての女」との「照応作業」に他ならない。だからこそ「実在としての女」を追いかけるのだが、その「実在としての女」は常に「幻想としての女」ではない。彼女らは幻想のようには、振る舞ってくれないのだ。そして男たちの苦悩は、ますます深くなるばかり…。
おそらく、「実在の都市・東京」に出会った後の地方組のとる行動は、想像に難くない。「実在の都市・東京」と対面した地方組を突き動かすのは、自己の中に巣くう「幻想の都市・東京」との「照応作業」である。自分が憧れたかの「幻想の都市・東京」は本当はどんな姿をしているのか。いろいろと巡り歩くのである。
かくして地方組は、「実在の都市・東京」が最初から身の回りにあり、思春期に「幻想の都市・東京」の暴走が巻き起こらなかった都会組にはない、東京に対する異常な知識量を持ち得るのである。