いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】そこのみにて光輝く

北海道・函館を舞台に、ある過去から逃れるように流れ着いた男・達夫と、地元の女・千夏が出会い、ひかれあう姿を描く。綾野剛池脇千鶴共演。冒頭、綾野をものすごくエロい感じで舐めまわすカメラワークなのだが、監督は呉美保という女性だそうだ。

ひかれあう二人だが、そんな仲を地元の因習というかしがらみが分けようとする。千夏は保護観察中の弟・拓児の後見人(地元のME・I・SHI!!)に、弟の身元と引き換えに愛人契約を結ばされているのだ。

函館というとこういう光景が思い浮かぶけれど、


映画が撮ろうとしているのは、酒飲みと乱暴者(いわゆるDQN)しかいないような、日本のネット社会が思い浮かべる「地方」としての「函館」だ。達夫と拓児が出会うきっかけとなったのはパチンコ屋で、「女は買うもの」なのだ。


池脇の熱演、暗闇に射したたった一筋の光、みたいなかすかな幸福感がただよう結末など、いい映画だと思うのだけれど、その一方で鑑賞しながら「あー、そういう話にもなるなー」と思ったことがあって。


こういう「打ち捨てられた地方」が舞台の映画を好意的に解釈することは、自分のなかにある「都会に住む優越感」というのと不可分なところがあると思う。

おそらくこれは、サイードのいうオリエンタリズムに似ている。
冒頭から「”ぼくら”が行かないようなところ、体験しないようなこと」が描かれるのだが、こうした光景を必要以上に強く受け止める背景には、きっと都会住まいの自分への罪悪感というか、「田舎コンプレックス」がある気がするのだ。
その「田舎コンプレックス」の対処療法として、こうした映画を必要以上に高く評価してしまう。その評価の背景には、(実際に訪れてもいないのに!)自分が田舎に抱いている優越感/罪悪感を免罪されたいという心理が隠れている気がする。