いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

それを言っちゃーおしめーよ

人生は、「気持ち」次第でどうにでもなります。そして「気持ち」だけは、自分の意志ではどうにもなりません。「気持ち」が良い方に向いている人は、それでいいです。でも、「気持ち」が悪い方にしか向いていない人は、一体どうすればいいのでしょう?


こういう話をすると、「気持ちが良い方に向くよう努力すればいいだけだ」と無邪気に言い切って、問題を解決した気になる人がいます。そりゃそうです、その理屈は圧倒的に正しいです。「貧乏人にお金を与えれば貧困問題はなくなる」という理屈と同じくらい正しいです。それは分かったので、次は意味のある話をしてください。


「勇気があればなんでもできる」という絶望 - 魔王14歳の幸福な電波


ここで言われていることは、徹頭徹尾正しいわけである。しかしそれが正しい「すぎる」が故に、ただそれを主張するのは正しくない、ということもあるのではないか。

どうもErlkonigさんのエントリーを読んでいると、はなからこれが「どうにもならない状況」であるのがわかっているにも関わらず、それでもなお、どうすればいいのか?と、「解決しなければならない」話の方向に問いを投げかけているような気がする。

問題は、こうすることで「弱者の権力性」が生まれる、ということだ。この場合、そもそもこのもう一段階前のErlkonigさんが批判の対象としている「勇気さえあれば行動できる」という精神論自体が、「どうにもならない状況」において発せられた「気休め」であることが多い。そもそも勇気が出ないのは敗戦が濃厚だからであって、勝ちが固いならば勇気なんてちょっとは出ているはずだ(僕自身、「どうにもならない状況」で「勇気をもって行動」したところで、上手くいったなんてこと、ほとんどない)。


「どうにもならない状況」を論題に上げ、「解決しなければならない」という意識でそれに取りかかれば、奇妙なことに強者と弱者の立場が逆転するということがある。「当事者」として弱者は強者となり、「当事者でない者」は「弱者でない者」(強者も含め)として弱者になる。その「強者/弱者」という構造の枠内において、弱者は強者となってしまうのだ。
くれぐれも、これは「弱者の皮をかぶった強者」ではない。弱者は十分に苦しんでいる。苦しんでいるのだけど、その「どうにもならない状況」を指摘する議論のレベルにおいて、振る舞い方のいかんによっては「弱者という名の(弱者ゆえの)強者」として権力性が生まれるということなのだ。マイノリティーポリティクスではこういうことがよくある。例えば、幼児性愛者は今もこの状況にあると言えるだろう(しかし、これがどうにもならない問題は放置に限る!ということではないことを、付け加えなければならない。「どうにもならない状況」は常に、「どうにもならない状況(仮)」として意識されなければならないと思う)。


「どうにもならない状況」において、弱者の「解決を求める声」や「お前らは何もわかっていない!」という批判は、まったく正しい。反論しようがない。しかし、それが「どうにもならない状況」であるが故に、聴く者を雁字搦めにする呪詛の言葉になる。このことで最も問題なのは、それを言ったところで、やはり何も問題の解決にならないということなのである。さらに言えば、強者/弱者の構造内において弱者が「弱者という名の強者」となってしまうということは、彼らが虐げられているもともとの「強者/弱者」という構造自体を、自らが固定してしまうことになるのだ。

「当事者でないお前に何がわかる!」それはごもっとも。
ごもっともなのであるが、それと同時に、「それを言っちゃーおしめーよ」でもあるのだ。