いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ネット作家と近代芸術観の意外な接点

手厳しく言及されている増田さんのも含めて、興味深い記事


この増田さんの記事をナイーブすぎるよと、思いながらも同時に、少なからずの共感を抱いてしまう自分がいるのに気がつくと、ネットでの「自己実現」でも僕らは、「個」という幻想から離れがたいんだなぁと改めて思った。要するに元増田さんの言いたいことをつきつめれば、「わしの絵は、芸術をわかった者にしか売らんっ!」という、もはや吹けばホコリが舞いそうな近代的芸術観の作家と隣接する。


作者の死だの、テクスト論だの、それらが言い尽くされた後に、その理論をなぞるかのようにインターネットというツールが登場したにもかかわらず、僕らは作品の向こう側に「自己の実現」の夢を見てしまう。いつの時代も、作り手側は作品を通して個の表現を行い、同時に受容する側にはその「個」の「承認」が要求してしまう、それは性なのだろうか。
おもしろいのは――ululunさんは「漫画の世界」や駿を例に出しているが――商業的に成功しているプロの作家ほど商業的な理由からその「自己の実現」を制限されることで、かえってその「幻想」から自由になっていて、むしろネット上だけで表現しているアマチュア作家ほど、この「芸術は自己の表出だ」という価値観に支配される、という興味深い逆説がここにはある。その人たちの場合、おそらくは仕事の傍ら趣味で作品を作っているのだろう。普段は仕事で「個」を押し殺しているからこそせめて、経済観念からは自由になれるネット上では、「自分を自分の思ったとおりに受け止めてもらいたい」と欲求してしまうのも、無理からぬことなのかもしれない。


釣りと自嘲気味にタイトルには厨二病と入れられているが、「作品を自分の思ったとおりに評価して欲しい」という作者の願いは、「本当の自分を見つめて欲しい」という厨二病の代名詞「自分探し」と相通ずるところがある。
「自分探し」という言葉の響きに僕らが寒気を感じてしまうのは、その探す範囲の「狭さ」にある。別にこれは、インドに行ったとか、アフリカに行ったとか、そんな空間的に遠い所に行って言い逃れできる類の「狭さ」ではない。実はどんな秘境にたどり着いても、そこにその人の求める自分は見つからない。なぜなら、そもそもその人は自分を探しているのではない。そうではなく、「自分探し」とはもともと自分の中にあった「自己の理想像」へ、外部評価をすり合わせたいだけなのだ。
真の意味での「自分探し」をするのは、例えば私小説作家などだろうが、それによって(期待したとおりの)「本当の自分」と出会えるなんて、大間違い。「本当の自分」なんて、反吐が出るほど不気味で、陰湿で、救いようのないほど気色悪いものかもしれない可能性だってある。そしてそんな「自分」こそ、もっとも今の自分から「遠い」。そんなことを書いている本を最近読んだ。

貧乏するにも程がある  芸術とお金の“不幸

貧乏するにも程がある 芸術とお金の“不幸"な関係 (光文社新書)


ラカン精神分析では、「本当の自分」つまりは「万能なかつての自己」という理想像から、主体が離ればなれにされてしまう過程を「去勢」と呼ぶ。逆に言えば、この去勢を経ない限り、人は精神病者か倒錯者である。
「作品を通しての自己表現」、「本当の自分」を恋い焦がれてしまうのは、正常者の「特権」なのかもしれない。