言っているようで言わされている、書いているようで書かされている言葉ってあると思う。
それは、自分の意思で使っているつもりが、その実は、誰かの受け売りであったり、どこかで聞いたことを無批判に使いまわしていたりするだけの言葉のことだ。
最近ぼくが「書かされている言葉」認定したくなるのが、「オナニー」だ。これは別に、あなたがこの文章を読んだあと床に就く前にやる例のほんちゃんのオナニーのことではない。
よくあるのが、ある作品に批判的に言及するときだ。書き手が、作家のエゴが出た作品に出会ったときに「公開オナニー」などと罵倒するのだ。その作家が発表した作品は、自己満足にすぎず価値がないと叩きたいわけだ。
最近、こういう表現を目にすると、ぼくは「うわっ、よくある表現だ」「これは書いてるんじゃない、書かされているんだ」と思ってしまう。
「公開オナニー」という言葉の「書かされている」感は、書き手がドヤ顔になりやすい批評という行為ゆえに際立つ。ドヤ顔で言ってるくせに、その実はどこかの誰かに使い古された言葉でしかないのだから、よけい恥ずかしい。
ほんちゃんの「オナニー」に対しても、この使い方は失礼だ。だいたいこういう言い方をする裏には、書き手の「オナニー」に対する蔑視が見え隠れしている。
そもそも「公開オナニー」の何が悪いのか? という話である。エロDVDには、オーソドックスなスタイルだと女優のオナニーパートが収録されるのが常道だ。これは、オナニーが売り物になっている証拠ではないだろうか。
それと同様に、作家が自覚的に自己満足で創作したものが、結果的に観客を満足させる可能性だって十分にありえるのではないか。自己満足だからといって、即害悪とはならない。
「公開オナニー」という常套句を、批判的な文脈でのみで使う書き手がいたとしたら。それは彼/彼女が、自らの手で自身の軽薄なオナニー理解を白日のもとにさらしてしまったといっていいだろう。