いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

読書家はむしろ逆だろ

文系の人って読んだ本の冊数を競うけどなんで?


むしろ逆だろ、と思った。最近会う人会う人に読んだ本やその本数を聞かれ、その多さに驚愕されるのが、恥ずかしく困っている。
いや、あのね、本書いているわけじゃないんです。読んでるだけなんですって。状況が状況(一応就活生、一応ね)であるし、こんなことをしている場合じゃないのだけれど、エントリーシート一枚書くよりも2冊本読んでいた方がたのしー♪と思うと、意識が勝手に本にあ〜れ〜。


であるからして、けして誇れるようなことではないのだ、本をいっぱい読むなんて。それよかネットである。本なんかよりも、場合によってはネットの方が有益な情報があるかもしれないのだが、どうも僕はネットサーフィンが未だに苦手なのだ。長々とリンクを張りまくっている論争には、長すぎて正直ついて行けん。他の人は、ついて行っているのだろうか。僕が読書法を教える代わりに、だれか「ネットで長々と続く論争をサクッと読みこなす方法」を教えてください。。


それで思ったのは、本の場合四次元があるなと。

1)本を多く所有し、かつそれらを読み切れている人
2)本を多く所有するが、それらを読み切れていない人(積ん読
3)本はあまり持っていないが、どっかから借りてきていっぱい読んでいる人(俺はここかな)
4)本を読まない人


例えばゲーマーについてもこういうマトリックスができるかもしれないけど、クリアするしないにしろ持っているということはプレイしているということとほぼ同義だと考えられる。それと本が異なるのは、本の場合、それを消費すること、つまり読むことい自体に一つの覚悟がいるのだ。だから、四次元になる。読書家は1〜3だが、僕の印象だと1の人は限りなく少ない。2と3が拮抗しているか。付け加えると、2で積ん読しているヤツは、あえて言い切ってやろう。この先もその本は絶対に読まない(きっぱり)。だから、2の人は、速やかに3の人に本をゆずってあげて欲しい。


ところで・・・

自慢げにコレクションを披露してしまう気持ちをぼくは批難する気にはなれない。ミニカーなんてくだらない。そんな風に切り捨てることは、あらゆる個人の価値観を否定することでもあるからだ。
(・・・)
たとえば、未開封のガンプラを集めている人がいる。すると、「作ってこそ価値がある」なんてもっともらしいことをいう人が出てくる。これもまた、個人の価値観を否定する発言である。


ぼくたちが読んだ本の冊数を競うワケ

どうもこの人は、人の価値観は否定しちゃいけないもんだと思われているようだが、僕は否定して何が悪いと思うのだ。人格否定にならない限り、否定してしかるべきものならば否定するべきであるし、そもそも批評性というのはそういうものではないだろうか。もしその対象がひどい価値観によって構成されているならば、必然的にそれに対する批評もそれの否定になる。何が何でも人の価値観は守らなければならない、というわけではないだろう。


ミニカーなんてくだらないって、そりゃ僕だって思うよ。でもそこで否定することになるからといって口をつぐんだら、何も新しい価値観は生まれないし、相手にとってもそれは失礼なことになるんじゃないだろうか。


ただその代わり、「否定される側」もその価値観に対する理論武装というか、批評性を持っておいてもいいと思う。自分が支持する価値観を、なぜこうも辛抱するのか。その批判者を納得させれないまでも、自分なりに根拠立てた思想を持っていてもいいのではないだろうか。
それをしないで、自分の価値観の自明性におぼれたまま動物化の一途をたどっていっていいものだろうか。