タイトルにあるし、かねてから戦後民主主義者と自称していた氏だけあって、当時アメリカに追従しイラクに自衛隊を派遣した日本政府を、そしてそれに明確な反論をできないでいる言論人を、さらに空気的には支持していた(と思われる?)日本国民を批判する内容になっている。
ぼくが大塚英志の文章に受けるイメージはいつも同じで、一言で言えばそれは「泥臭さ」だ。とうとうと、愚直に、同じ主張を何度も何度も続ける。もうわかったしつこいよ、と思ってしまう時もあるし、その独善的な主張が不快になるときもあるが、反面、その泥臭さにカッコよさを感じているところも、否定できない。
しかし、今回この本を読んで、単に独善的なだけなんじゃないか?と感じてしまった。
今回もその主張はいたってシンプルだ。「戦争はよくない(反戦)」であり、「声を挙げろ」だ。くだんから、大塚氏は「言葉」の重要性を説いてきた。今回もその延長線上に問題は設定されている。
しかし、ここにはダブルスタンダードが存在する。なぜなら、氏はここであらかじめ、「声」というものを「反戦」の「声」というものに、限定してしまっているからだ。例えば、文中でタレントの「山田まりや」や、一介の「主婦」などの発していたという参戦に比較的に好意的と思われる「声」は、否定的にとりあげられている。それらは「保守論壇」の言説の焼きまわしだとしてとりあわないのだ。
ここで整理しておくと、「戦争はよくない(反戦)」は一つの価値判断であるのに対して、「声を挙げろ」と言うのはその前提を作る“メタ”価値判断だ。だから「声を挙げる」その内容までは、本来規定しえない。しかし、氏はその二つを意識的にか無意識的にか、混同する。
戦争はよくない、人を殺してはいけない。それに賛成することにぼくはやぶさかではない。だが、氏は自分の主張とは異なる「声」については、あたかも主体的な主張ではなく空気に操られて作られた「声」だといって、ほとんど取り合うことなく切り捨てる。それは少々フェアネスを欠いていると思うのだ。
また、そんな氏の反戦論であるが、それがポジティブに語られることはない。すべては「〜してはいけない」「〜はよくない」といった否定形でしか語られない。実際のところ、それでは「『戦時下』に語らない方がいいという処世を呼びかけてしまっている」としてたびたび批判の俎上にあげられる柄谷行人のスタンスと、たいして変わりはない。氏は語るという方法で語っていないのだ。
そして今回、ぼくが読んでいてもっとも空しく思ったのは、サブカルチャーというバックボーンをもって論壇に孤高の戦いを続けているという彼のセルフイメージに対してだ。いまや「サブカルチャー」とひと言書いて一まとめにはできないくらい、何がサブカルで何がそうでないか、その意味は拡散しわかりづらくなっている。こうした中で、彼が引き受けている立場自体、実は誰も担い手がいない、「サブカルチャー」の名を借りた幽霊船なんじゃないだろうか。
あるいはこれは、彼の時代感覚の決定的なズレにも由来するところかもしれない。第一、日本のナショナリズムとサブカルチャーの関係について論じるとき、かわぐちかいじや『島耕作』を出すその手つきに、ぼくは致命的なジェネレーションギャップを感じずにはいられないのだ。