いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

マンガ的とは

ある評論家が、とあるマンガ作品を評するときに「マンガ的」(ここではストーリーマンガを指す)という言葉を使ったことで、いったいその「マンガ的」というのはどういうことじゃなもし、という話を本で読んだことがある。


マンガのマンガたる要素とは何か。それってマンガ批評にも言える。マンガ批評は、マンガの中の一体何をマンガとしてとらえ、批評すればいいのか。
結論から言ってしまえば、マンガとその要素は複合物だ。戦後の日本マンガの発達には、映画的要素および文学的要素の吸収が不可欠であった。それら要素を取り入れ、コマと文字と絵で構成されているのがマンガである。しかし、そのような規則を措定すること自体に一種の罠があり、その措定されたマンガ性を常に逸脱していく側のエネルギーも、実はマンガ的であったりする。だからこそ、確固たるマンガというものものは語れないということになる。


マンガのマンガ的という観念は、そう措定された瞬間から逸脱していくという運命にある。すると、一体全体マンガ的とはいかなる状態を指すのか、わからなくなる。しかし、だからといって「マンガ的」という観念が存在しない、ということにもならないのが難しい。なぜなら、先の評論家のようにマンガ的といわれたとき、それを聞く側の僕らの中にだって、マンガ的という観念は立派に存在するのだから。マンガ的なマンガとマンガ的でないマンガが現にある以上、そこに僕らが共有する「マンガ的」という観念の存在を認めなければならない。


マンガ的という観念を「マンガ的とは〜ということである」という語法では語れない。ではどうするか。僕は、この「マンガ的」とは否定形にしか語れないと思うのだ。否定形でしか語れず、数々の要素を否定していった先に、それでもまだ残っている語り得ぬ残滓こそが、「マンガ的」という観念の正体なのではないだろうか*1
例えば、「実写には向かない」というのも、「マンガ的」を司る重要な否定形だ。というわけで、僕が勝手に「ドラゴンボール」をマンガ的なマンガと認定。


*1:書いてて、これって「女は存在しない」のまんまじゃねぇか、と思った。「否定形でしか語れず、数々の要素を否定していった先に、それでもまだ残っている語り得ぬ残滓こそが、「女性的」という観念の正体なのではないだろうか。」