いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

駅特有の寂しさ


ホームレスの女 - Ohnoblog 2

ohnoさんの出会ったのはホームレスで、僕の見たその人は身なりからしておそらく路上生活者ではなかったから、厳密には違うのだけど、駅だったということと、ohnoさんがこのとき抱いた感情とおそらく同じようなものを僕が抱いたエピソードなので、ここに記す。


一,二年まえのことだ。普段はあまり乗らないバスで横浜駅まで向かっていたとき。僕はその男性を、バスが信号待ちをしているときに見つけた。背広姿のその人は、路上でうつぶせに寝ていたのだ。いや、倒れていたと表現するべきか。僕はバスの左側の席に座っていたから偶然それを目撃したのだ。これが深夜の2時ぐらいのことだったら、「飲み過ぎには気をつけなよ、オヤジさん!」とでも心の中でつぶやきながら看過できるところだが、それが真昼の午後2時くらいだったとなると、そんな悠長には考えられない。急病なのだろうか、何か怪我をしたのだろうか?
男性の横をぞくぞくと人が通り過ぎるのだけれど、介抱しようという人はいない。おいおい、人が倒れてるんだぞ。もしかして、介抱者は誰かに助けを求めにいったのか。いやそれにしたって、大の大人が倒れているのだ。人だかりができたっていいのではないか。


一瞬迷った。どうしよう。何か行動を起こすべきだろうか、と。一番よいのは、最寄りのバス停で降りて、その人のもとに向かうことなのだが、なにぶん僕は所用で急いでいた。だからこそ、普段は乗らないバスに乗っていたのである。


携帯電話で警察を呼ぼうか、と思った。しかしそこは駅の付近ではあるものの、駅ではなかった。だから通報するにしろ、この男性の倒れている地点を明確に指し示す目印のようなものを伝えなければならないのだが、それが見あたらない。それではもし通報したとしても、警察が捜し回ることになるかも知れない。それでは単なる人騒がせな人になってしまう。
そんなことを逡巡している内に、またバスが動き出してしまった。僕は結局何もしなかったのだ。


それから数日間、新聞やテレビのニュースをチェックしていて、僕の見た人と似たような身なりと状況の変死体が見つかったというニュースなかったのを見る限り、あの人は無事だったのではないかと、自分を納得させている。


それにしても「なんかやだなぁ」、と思ってしまうのだ。

僕は、横浜に出てきて最初の二年間、横浜駅には訪れたのは数えるほどしかなかった。地下鉄で二駅、自転車でも一〇分程度の場所に住んでいたのにもかかわらず。それは僕持ち前の出不精でもあるのだけれど、その出不精をも含めて、僕が横浜駅に寄りつかなかったことの根本的な理由は、あそこが「寂しい場所」だったからではないかと、今にしてみれば思う。
何本もの路線が通るあのような駅は、日に何万いや、もしかすると何十万の人間が行き来する場所だ。でも、というかだからこそというべきか。あそこは僕にとって寂しい場所なのだ。こういう寂しい感覚というのは、不思議なことに他の混雑する状況ではあまり感じない。駅特有のものなのだ。
高校時代、長閑な無人駅を利用して高校に通っていた僕の偏見かも知れないけど、人がいればいるほど、人数が増えていけばいくほど、すぐ隣の他者に対する関心が、反比例して薄まっていくような感覚がある。もしかすると人が多すぎるからこそ、皆が皆関心をシャットアウトするのだろうか、駅だからこそ人は冷たくなるのか。それともそれは、駅が「留まる場所」ではなく、原理的に目的地へ「通り過ぎる場所」であるからだろうか?

別に見ず知らずのすれ違った人に、愛想振りまけ、あいさつしろ、と言いたいわけではない。人類皆兄弟とまでは思っちゃいないが、最低限同じ人間として、倒れてるなら興味関心ぐらい持てよ、と思うのだ。


それでも何もしないよりはましなのでは? 

何かした方がましなのか。では何もしないで通り過ぎる人と、何かした私との間にどれほどの差があるのか。差などない。


ohnoさんはここで、行動を起こす/起こさないという差違について書かれているが、僕なんかが思うのは、こういう光景に対して立ち止まって逡巡する人がいる一方で、平気で通りすぎることのできる人もいる、といういわば内面における人間の両極性だ。後者を前者と分かつ線って、いったいなんなのだろう、と思ってしまう。


と、自己弁護をしておきながらも、それは実は結局同じことなのかも知れない、とも思う。もしかするとあのとき通り過ぎた人たちは、みんながみんな内心では僕と同じように思っていたのかもしれない。彼らも僕と同じくらいいろいろ考えた末に「何もしない」という帰結をたどった、とも十分に考えられる。そしてその後にあるのは、ネットの海のようにその逡巡を吐露できる環境があるかどうかだけなのではないか。


実は駅という場では、何百もの「いろいろ考えた末に何もしない」が合わさって、一つの巨大なる「無関心」という空間が形成されている、のかもしれない。