いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】リーアム・ニーソンがホワイトハウスに挑む 拳ではなく情報で「ザ・シークレットマン」

www.youtube.com

 

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リーアム・ニーソンがFBI副長官マーク・フェルトを演じる「ザ・シークレットマン」は、米国史上最大の政治スキャンダル、ウォーターゲート事件の内幕を描く硬質なポリティカルサスペンスだ。

 

 

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 同事件については、「大統領の陰謀」という作品が有名だ。同作では事件をすっぱ抜いた記者が主役で、フェルトにはスポットが当たらない。なぜなら公開当時、記者の取材を陰で指導し、事件解明に大きな役割を果たした謎の告発者、「ディープ・スロート」=フェルトの正体は明かされていなかったからだ。本作は、晩年にフェルトが自ら告白し、ディープ・スロートがなんと時のFBI副長官という大物中の大物だったという事実が明るみになったからこそ生まれた、いわば「大統領の陰謀」のアナザーサイドと言えよう。

 

FBI初代長官のフーヴァーが亡くなった翌月、米民主党本部が盗聴されるという事件が起きる。捜査に乗り出したフェルトらFBIの面々だったが、就任したばかりの長官代理(ニクソン大統領が指名!)が、あろうことか自分たちの捜査を妨害し始める。不可解な新しい上司の動きに、期せずしてフェルトは、事件の水面下で強大な政治権力が動いていること勘付く。そしてそれは、それまで捜査の独立性を保持してきたFBI最大の危機でもあった…!

「96時間」以降、その巨体を生かしたアクション映画で新たな境地を示したリーアム・ニーソン御大であるが、本作では、全く違った一面を見せる。物語冒頭、自宅プールサイドに佇む彼の内くぼんだ目と、苦労の数だけ刻まれたようなシワくちゃの顔、いつもより細っそりしたフォルムから、観客はすぐに「ああ、この映画はパンチやキックが出てくるわけじゃないんだ」と悟るであろう。本作でフェルト=リーソンが武器にするのはそのこぶし、ではなく情報なのだ。

本作でリーソンが演じるのは、FBIを陰で支えてきた守護神。ウォーターゲート事件は、FBIを30年間守り続けてきた男が成し遂げる最後の重責なのであった。かくして、捜査を妨害する政権と、情報をマスコミにリークするFBI=フェルトという本来ありえないはずの情報戦が始まる。

 

一方で彼は娘の失踪という私的な問題も抱えていた。これは何も映画の盛り上がりを意識した創作ではなく、ガチで当時はこの問題とも立ち向かっていたらしい。また映画の中では、フェルトのキャリアの暗部もきちんと描いており、非常に誠実だ。

史実に忠実であるため、銃撃戦も暗殺もない地味目な内容だが、その分、役者の演技できちんと見せ場を作っているのが見事。

なお、邦題であるが、これが精一杯かなと思う。一番気が利いてるのは告発者のコードネームだが、なにぶんこれの原義がものすごい下ネタなので使えなかったのであろう。

 

【参考記事】

www.huffingtonpost.jp

toyokeizai.net

【映画評】リアルな政治状況をエンタテイメントに昇華した快作「コンフィデンシャル/共助」


公式サイトより。

いやはや、こんなタイミングですごい映画が公開されたものだ。本作は、北朝鮮の刑事と韓国の刑事がタッグを組んで繰り広げるド派手なバディムービーだ。
もちろんこれまでにも、現実の複雑な朝鮮半島情勢を背景にした映画は数あったが、本作はそうしたリアルな踏まえ、なおかつそれをアクションあり笑いありの極上のエンタテイメントにまで昇華した快作だ。

北朝鮮で、とある「機密」が奪われた。犯人は韓国内に潜伏しているという。北の上層部は、両国の首脳級会談のタイミングを見計らい、その「機密」を奪った裏切り者を逮捕するために刑事チョルリョンを送り込む。迎えるのは韓国のベテラン刑事ユ・ヘジン。ヘジンは表向きにはチョルリョンの捜査の「共助」を命じられているが、内実はチョルリョンが韓国内で好き勝手に動きをしないように封じることを命じられていた。

「北」と「南」の大胆な書き分けが小気味よい。北からやってきたのは祖国に尽くし、恋人を殺された悲しみを背負う実直な男。一方「南」の刑事は、安月給に文句を言いながらも家族のために汗を流すパク・チソン似の三枚目。映画は、まるで別の作品のようなふたつの世界観から立ち上がり、ついに二人が交錯する。水と油のような二人は対面しても当然反目し合うが、次第に芽生える共感は、いつしか共闘という行動に変わっていく。

ストーリーはオーソドックスな域を出ないけれど、体を張ったアクションには目を見張るものがあり、あと見せ方がすごくカッコいい。個人的に好きなのは、ヘジンが言うことを聞かないチョルリョンを自身と手錠でつないだものの、結果的に車に乗りづらくなった場面。助手席のチョルリョンを押しのけ運転席に乗り込もうとする必死なヘジンの姿が、否が応でも笑えて来る。

国の分断といえば、東西ドイツがしばしば描かれるが、それはあくまでも(統一後の現在の内実はともかくとして)「過去の話」だ。朝鮮半島に関しては今まさにそこにある状況である。ぼくは、朝鮮半島の人たちの状況を事実として理解できても、感覚的にはまだよく理解できていない。同じ国の人間だったのに引き裂かれた痛みや、同じ言葉をしゃべる人たちと隔絶されるという理不尽さが、いったいどういうものなのだろうかよくわからない。

だからこそ、こうした題材を真正面から描く「韓国人」監督や「韓国人」俳優自身らの度胸が眩しい。本作は南北分断の「痛み」や「理不尽さ」を直接的に描く描写は少ないが、少なくとも、そうした状況をリアルに感じて生きてきた人間の息遣いは聞こえる。

【映画評】今、全力の自己肯定が必要なあなたへ 「グレイテスト・ショーマン」


ヒュー・ジャックマンが伝説的なサーカスの興行師、P・T・バーナムに扮する映画「グレイテスト・ショーマン」は、観る者が自身の人生を全肯定されるかのような解放感と高揚に満ちた映画です。

ミュージカルなので当然ですが、なんといっても楽曲がイイ。音楽を手がけたのは、「ラ・ラ・ランド」でもタッグを組んだベンジ・パセック&ジャスティン・ポールのコンビ。本作では公式が主要曲のほとんどをYouTubeで公開するという思い切ったことをしていますが、自信の現れでしょう。ここで聴いて「曲がいい!」と思った人はまず間違いなく観に行ったほうがいいです。映像を通してもっと好きになると思います。

冒頭で早速かかるその名も「グレイテスト・ショーマン」で一気に心をつかまれます。つかみがOKどころか、パーフェクト。オープニングからドーンとアガるのは「ラ・ラ・ランド」も同様です。

貧しい生まれながら、夢を捨てなかったバーナムは「地上最大のショウ」設立にまでたどり着く。それまで社会から差別されてきた変わり者たち(髭の生えた歌姫、移民、小人、顔まで毛むくじゃらの男、全身入れ墨だらけ、200㎏を超えるデブ、200㎝以上の大男、結合双生児などなど)を集めたショーは、批評家から「まがい物」「ペテン」との誹りを受けながらも、大衆の人気を勝ち取っていきます。バーナムのステージの上では、彼らを社会的弱者たらしめていた要因(見た目の奇形など)そのものが、観客を魅了するチャームポイントに反転したのです。

本作はミュージカルということもありますが、何よりテンポがいいです。監督のマイケル・グレイシーさんは、これが初監督作品というので驚きです。テンポの良さも相まって、細かいところは「まあいいか」となる点でプラスに働いていると思います。

一方で、今作は実際のバーナムをあまりに美化しすぎであるとの批判にも晒されています。例えば、アフリカでの象に対する所業は虐待と言われても仕方がないのですが、本作では描かれていません。舞台は19世紀ですし、本作で描かれるバーナムはかなり「リベラル化」していることは留意しておいてもよいでしょう。

The Greatest Showman has also drawn criticism for sugar-coating Barnum's story.
グレイテスト・ショーマン」はバーナムの物語を美化しているとの批判を浴びている。

Away from the spotlight Barnum had a dark side more shocking than any of his 'freak show' attractions.
スポットライトの当たらないところで、彼には「フリークショー」以上にショッキングな暗い側面があった。

Dark side of PT Barnum more shocking than any of his 'freaks': Truths The Greatest Showman conveniently ignores - Mirror Online


その他にも事実の相違は散見するようです。ここまで素晴らしい作品なら、なぜ実在の人物にしなければならなかったのだろう。オリジナルキャラクターでよかったのでは? という気がしなくもありません。

バーナムはついにはイギリス、エリザベス女王に謁見するまでの地位を獲得しますが、さらなる成功を追い求めていくうち、ショーのメンバーとの間に軋轢を生みます。成り上がった者が一転、それまでの仲間を疎ましく思い始めるのは、人間の仄暗い一面です。そこから物語は大きく動いていきます。

そして、ここぞとばかりにかかるのが、カーラ・セトル(髭の歌姫)が歌う主題歌「This Is Me」。私は私のリズムで突き進む――カーラの歌声は鳥肌ものですが、流れる文脈も完璧で思わず熱いものがこみ上げてきます。

懸念されるのは、「ミュージカル嫌い」もこの社会には一定数いることです。そういう人も一度、「MV集」だと思って観に行きましょう。

また、予告編からでもヒシヒシと伝わってくる「テンションが高い」のに尻込みしている人もいるでしょう。「テンションが高い」のは間違いないですが、ぼくに言わせればこの映画はむしろ、自分は独りぼっちだとか、社会に適応できないと悩んでいる気持ちの落ち込んでいる人ほど見るべき。すべての存在を肯定してくれる「This Is Me」は「ぼくたち」の歌なのです。

【書評】有吉の眉毛からミスチル桜井の不倫まで射程に入れたJ-POP批評「考えるヒット」


本書は、70年代から80年代にかけて伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載していたミュージシャンにして音楽批評家の近田春夫が、その真骨頂である歌謡曲批評にしばらくぶりに帰ってきた一作。週刊文春誌上で97年のヒットチャートから毎週2枚をピックアップし、批評した連載がもとになっている。

考えるヒット (文春文庫)

考えるヒット (文春文庫)


オススメは、順番にこだわらずペラペラめくりながら気にとまったページから読むやり方だ。それはJ-POPが非歴史的であるからでもあるが、それ以上に近田の文章が時代の文脈から独立して面白いから、これにつきる。場合によれば、作品に勝ってすらいることがある。

近田の批評の魅力はなんといっても、歌謡曲批評でありながら、楽曲や歌詞の枠にとらわれず、ジャケット批評や芸能人批評まで射程に入れているということだ。もちろん楽曲批評の濃度も高いのだが、「その他」の枠が広すぎる。猿岩石有吉のジャケットの眉毛がカールしていることも、桜井和寿が不倫スキャンダルの際に報道各社に謝罪文を送ったまめさも、それらすべてを集約して初めて「J-POP」なのだというのが、彼の理解なのだろう。

難解な言葉遣いは皆無で、その上、ウダウダ書き連ねているようでいて突如として対象の本質に貫く切れ味のよさがある。なおかつ、読みながら思わず笑ってしまうようなキラーフレーズがあるからたまらない。「THE 虎舞竜に関しては、私はロード的存在であることしか知らぬ」これ以上に端的に高橋ジョージを評した言葉が、他にあるだろうか?

このよい力の抜け方は、もしかすると対象曲を別の人に選んでもらっているからかもしれない。自分で選んないからこそ、肩に変な力が入っていない可能性がある。もうJ-POPは聴く時代から読む時代に移ったのかもしれない。文庫版の解説は、自身も近田の影響を受けたという評論家の宮崎哲弥が寄せている。

【映画評】戦争をめぐる皮肉めいた寓話「ロープ/戦場の生命線」

ベニチオ・デル・トロティム・ロビンスらが出演する「ロープ/戦場の生命線」は、ドライなユーモアにあふれる反戦映画です。

舞台は95年のバルカン半島のある国。国連の管理下において紛争はかろうじて停戦中ですが、まだ周囲には地雷が埋まっている予断を許さない状況です。マンブルゥ(デル・トロ)とビー(ロビンス)ら「国境なき水の衛生管理団」は、ある村の井戸に投げ捨てられた男の遺体の回収にあたります。しかし遺体を引き上げるのに必要なロープがない。やむを得ずいったん井戸を後にし、一同はロープを探すことになるのですが…。

明言はしていないものの映画が題材にしているのは、ユーゴスラヴィア戦争という現実です。したがって極めて具体的、政治的な映画のはずですが、一方で内容はとても寓話的で、おとぎ話のような感触なのがおもしろい。「ロープ」は様々なものに置き換えられる象徴であるように思えます。

マンブルゥらは手分けしてロープを探しますが、なかなか見つからない。いえ、正しくはロープは見つかっても様々な事情でそれが使えないのです。ある者はビーがよそ者だからという理由で売ってくれない。ある者は国旗を掲揚するロープを貸してほしいと頼んでも、一度旗を降ろしたら「降伏」したと勘違いされるからと言って貸してくれない。そして、頼りのはずの国連は殺人的に無能です。すぐそこにロープがなくて困っている人がいるのに。ロープ一本があれば解決するのにそれができない。

デル・トロとロビンスのふたりが醸す、戦場に何年もいたために悟り切っちゃった感がたまりません。無慈悲な民族紛争を題材にした映画ですが、ふたりの存在が映画そのものの質感を柔らかくコーティングしているところがある。マルブルゥが劇中でこぼす「何を言っても変わらないものは変わらない」という言葉。一見それはネガティブな思想にみえますが、上手くいくことの少ないような彼の仕事では、上手くいかなくても淡々と次の作業に移るために必要な思想なのかもしれません。

なお、原題は「A Perfect Day」。上手くいかないことだらけの状況に対して、ある登場人物がこぼす皮肉です(ちなみに歌手のルー・リードは「Perfect Day」において、恋人と動物園に行ったり映画を観たりするありふれた日常の尊さを歌っています。映画の中の人物たちにはそんな日常がまさに、得難い「パーフェクト」な日常なのでしょう)。

最後にかかる「Where Have All The Flowers Gone?(花はどこへ行った?)」とともに、敵味方の別なく誰のもとにも降りそそぐ雨は、もうすべてノーサイドにしようよという呼びかけのようにも感じられました。

【書評】ホーンテッドマンションのイメージの起源とは? 「『幽霊屋敷』の文化史」

東京ディズニーリゾートには評者も何度か行ったことあるが、その中でも「ランド」内にある「ホーンテッドマンション」は、そのおどろおどろしい雰囲気において園内でひときわ異彩を放っている。のちに「シー」にも「タワー・オブ・テラー」が登場するが、両者に敷衍するのが、ゴシック様式である。本書はホーンテッドマンションと、かのアトラクションに醸し出されるゴシック様式について、文化史的に追った新書である。

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

話は建築にとどまらない。キリスト教圏においては元々その存在が認められなかった幽霊が物語の中に初めて登場し、恐怖小説として成立したゴシックストーリー、恐怖が娯楽になった19世紀のファンタスマゴリー、蝋人形館など、どこかキッチュでどこかいかがわしいゴシックのイメージの構築が、いかにしてなされたかが語られていく。本書を読むと、もともとゴシックとは中世の建築様式にすぎず、我々が使う意味での「ゴシック」のイメージは、古の文人たちが文学とゴシックを接合したときに生まれたものであったことがわかる。

中盤にかけてのゴシック的意匠の文化的変遷をめぐる議論は、弱冠ホーンテッドマンションから離れ、また他の研究者の研究を参照しているだけのためか少々退屈だが、ここまで「ゴシック」が敷衍した昨今、教養としてなんらかの意味を持つだろう。

20世紀にまでたどり着き、ようやく冒頭のホーンテッドマンションの話に戻ってくる。その仕掛けからモチーフまで何からなにまで0から構築したカリフォルニアでのデザイナーたちの切磋琢磨も興味深いが、それがフロリダ、東京、ヨーロッパのディズニーリゾートにどのように移植されていったかの違いも面白い。

もしあなたが次にホーンテッドマンションを訪れるとき、これを読んで頭に叩き込んでおけば、長い待ち時間にガールフレンドの機嫌を損ねることもないだろう。