いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】ただの「フェミおばさん」ではありません 男女ともにぶった斬るエッセイ集「あほらし屋の鐘が鳴る」


文芸評論家、齋藤美奈子のエッセイ集、『あほらし屋の鐘が鳴る』の文庫化。前半「おじさんマインド研究」と後半「女性誌探訪」によって構成されている。前者は雑誌『pink』誌上での連載、後者が雑誌『uno!』誌上での連載を再構成したものだ。

あほらし屋の鐘が鳴る

あほらし屋の鐘が鳴る

軽妙な文体で核心を突くのはおなじみの「齋藤節」だが、かつて『男性誌探訪』でも見せた氏の「おじさん」叩きは特に毒っ気が強い。「不倫は文化」の思想(?)にただよう性差別をめぐる指摘や、ATMをめぐるユニークなアプローチのジェンダー論は、なるほど齋藤氏ならではの切れ味だ。「判事のオッズ」という章での力説は、言い方は古めかしいが「近代的個人」とはこの人のような人をいうのだろうなと思わされてしまう。ただ、宮崎駿批判や小林よしのり批判は、単なる個人の好みの域を出ていないようにも思えるが…。

もっとも、ここまでだと彼女の本を初めて手に取った読者には、「口が上手いフェミおばさん」と勘違いされそうだが、その印象は後半「女性誌探訪」にて覆されるだろう。

後半の女性誌探訪を読むと、氏の矛先はときに「女の子」にだって向くことがわかる。ショッピングとコスメと占いばかりにかまけている女性誌にだって、あほらし屋の鐘は鳴り響くのだ。かーん。

偶然ながら、本書の元の記事が連載されていた『pink』と『uno!』はともに休刊したとのこと。本文中では『CREA』が生き残るために低俗化したことを嘆かれているが、両誌が時流に乗って低俗でくだらない内容を垂れ流し続けていたなら、もしかしたら両誌は生き残っていたのかもしれない。これが、齋藤美奈子氏の毒のある(そしてちょびっとためになる)エッセイのようなものを乗せる編集方針では生き残れないことの証左だとしたら、あまりにも悲しすぎる。

【書評】解放感に満ちた未来予想図 あなたはどう読む?「お金2.0 新しい経済のルールと生き方」

すでに意識高い系界隈を中心に大いに盛り上がっており、遅すぎるぐらいだけれど読んでみた。
本書は時間を売買するという奇想天外なアイデアの「タイムバンク」を運営するメタップス社長、佐藤航陽氏による「お金」についての本。近年話題になっている、フィンテックビットコイン、AI、評価経済、シェアリングエコノミーなどをわかりやすく解説している。

ただしそれは、「これらを利用したら上手くお金儲けができるぞ」といった類の趣旨ではない。そもそもお金を増やす=「儲ける」ことを第一とする生き方自体が、著者に言わせれば未来には廃れていくか、もしくは相対的に価値が下がっていくだろう、というのだ。

著者は、テクノロジーが「お金」の概念そのものを変えてしまう、という。これまでの資本主義は「国」が信用を与えた「通貨」によって回っていたが、テクノロジーの発展によって複数の経済圏が生まれ、個人はその複数の経済圏を行き来できるようになる、というのだ。ここでいう「経済圏」とは、ドル⇔円、円⇔ユーロといった貨幣間の往来のことではない。企業や団体、もしくは個人が各々に自前の経済圏を作る「経済そのものの民主化」が起き、既存の「お金」の価値が相対的に低くなっていくということだ。

そしてゆくゆくは、今まで「お金にはならないけど価値のあるもの」、例えばある人がオーディエンスから集めた興味・共感・好意という感情までが、「お金」にとって代わる、という。
でもそれは絵空事でもなんでもない。現に動画の生配信で実現はしているし、中国ではもっと先鋭的な形で実現していることを、本書は例示している。


この本を読んでみて、有用な情報や知識よりなによりも、何かから解放された高揚感でもいうような名の「感情」を覚えた。オラオラ系イット会社の社長にありがちな「もうそれは古い!」「オワコン!」「これがわからん奴ははよ氏ね」などといった選民意識をくすぐる煽りは、かえってゲンナリさせられる。一方本書は、著者の、あるいは編集者の資質なのだろうがそれがない。あくまでも「こんなオルタナティヴもあるよね〜」と読者を優しくいざなう。よくいえばポジティブ、悪く言えば楽天的であるが、「こういう未来になったらいいなあ」という気持ちになることは確かである。テレビでニュースをつけても、ツイッターを覗いても、嫌なことばっかりが目に入ってくる昨今である。なんかもっと楽しそうな情報はないんかいと思っているあなたにはうってつけである。

一方で、読んだ上で本書の内容を「いかがわしい」と思う人がいるのももっともである。その真価は20年後、30年後になってみないとわからないだろう。そのときに「未来を見据えていた先見の書」と評されるか、「狂人が著した紙きれ」に成り下がるか。それまでにはまだまだ猶予があり、自らの手でいろいろ模索してみるのも悪くない。

【書評】イッて失神した女性だけの体験談集 データハウスが放つ奇書「SEX失神マニュアル」


この本はすごい。なにせセックスやオナニーで失神した女性の体験談だけを集めた本なのだ。セックスで失神である。どうだこの中学生並みの想像力。しかもそれを大の大人が一冊の本にしたのである。本書は、辰見拓郎というなんともいえないセンスのペンネームの風俗ライターと、三井京子という自称「Hなライター」が、実際に失神体験をした74名もの女性のインタビューをまとめている。

SEX失神マニュアル

SEX失神マニュアル

帯には一応「限界を超える興奮、快感でもたらされる『失神』体験! その超快感を生むテクニック、シチュエーションを200点以上の写真とイラストを用いて解説した初のハウツーガイド」とある。ハウツーセックス本なんていくらでもあると思うが、この「初」というのはもしかして「失神」にかかっているのだろうか。その針の穴を縫うような狭さのマーケティングセンス!

しかしマニュアル本と考えても、本書はなかなか厳しいものがある。ためしに27歳の会社員、坂本温子さんの体験を抜き出してみよう。

「彼氏がいるんですけど、うちの会社にアルバイトで来ていた20歳の大学生とHしちゃったんです。凄いことされて、興奮して気持ち良すぎて失神しました。忘れられない経験でした。彼氏とのセックスは至極ノーマルで、大学生の彼は知識が豊富で私を悦ばせてくれるんです・・・」

おい早くマニュアルを解説しろという話なのだが、本書では実践的な情報にはほとんど触れず、全編にわたってこうしたエッチな体験談が続く。どちらかといえばそれは、アサヒ芸能やら週刊大衆、週刊ポストといった、女の人に相手にされなくなったオジ様方がドキドキワクワクしてページをめくる雑誌記事に近い。いやむしろそちらとしては優秀で、単色カラーだがヌードモデルのセクシーカットが全ページに挿入されている。そっちと張り合ってどうするというツッコみはこの際なしだぜ。

とにかく、圧倒的に間違った方向に突き進む情熱だけは伝わってきて、なんだか元気が出てきた。この本でデータハウスの底力を知った次第である。

【書評】大作家を"病歴"からみる異色の評伝「文豪はみんな、うつ」

日本近代文学史というのは、とにかく「変人」に彩られている。小説という空想世界の設計者たちだ。当然、ペンを握っていないときでも、やたらスケールのデカいエピソードや、とある対象に対しての偏執なまでの執着や嗜癖など、話題には事欠かない。当然、精神的な疾患を患っていた人も少なからずいる。

本書は、現役の精神科医漱石や太宰といった日本の名だたる文豪の来歴、作品を読み解きながら、彼らが生前に苦しめられていた精神疾患を「診断」するという体裁をとった、異色の作家論集だ。先行研究などで下された「誤診」をも見抜き、新たに診断を下しているところもあって面白い。

もっとも、読み始めて思ったのだけれど、たとえ芥川が統合失調症ではなくうつ病であろうが、中原中也の疾患が心因性のものではなかろうが、身もふたもない話だが一般読者からすれば至極どうでもいい、ということだ。真の病理がわかったところで彼らの作品の価値は一片も減じないし増えることもない。彼らの真の病名に気にかけているのは、各作家の熱烈なファンか専門家くらいのものだろう。これは当然で著者もわかっている。

いわばこの本は、日本を代表する10人の文豪を「病歴」から見たライトな評伝といえ、一般読者は彼らの名作を手に取るきっかけとして本書を読めばいいのだろう。そして多くの読者が読み終えたときにたどり着く結論―――それはおそらく「文豪はみんな、悲惨」ということにちがいない。

【書評】構造主義の第一人者の血湧き肉躍る若き日の肖像「闘うレヴィ=ストロース」


本書は、09年に亡くなったフランスの文化人類学の大家で、構造主義の第一人者のクロード・レヴィ=ストロースについての新書である。彼の訳本も手掛けた著者が、主著だけでなく膨大な歴史資料を基にして書いている。

闘うレヴィ=ストロース (平凡社新書)

闘うレヴィ=ストロース (平凡社新書)


この本は、どのような目的でとるかで評価が変わってくる。はっきりいうとレヴィ=ストロースの思想的功績を概念的に俯瞰した視点から知りたいという人には不向きである。主著の三作『親族の基本構造』『野生の思考』『神話論理』も時系列に解説されるが、知っている人ならわかるとおり、この議論は図解がなければ到底のみこめる代物ではなく(といっても図解があっても評者自身は半知半解だが…)、この本だけで彼の思想を十二分に理解することは困難だろう。

構造主義の入門的内容の新書はほかにも数あるのでそちらをあたった方が得策だ。僕の手元にある初版の帯には「まったく新しい思想家像」とあるが、その言葉通り、本書の主眼は構造主義の概念的な理解というより、これまであったレヴィ=ストロースの中期から後期の厳粛な構造主義者のイメージとは別の、マルクス主義に傾倒し反体制的活動にコミットした血沸き肉躍る若いころについての著述の側にこそある。活動家の雑誌に寄稿した彼の文章から透けて見えてくるのは、西欧のエスノセントリズムを暴き出した鋭敏な知性、というイメージとはまた別の、まだ未成熟で不安ながらも、芯の通った一学生の面影である。後の彼の仕事は、マルクス主義を含む「西欧」を相対化することになるが、彼のなかに転向や断絶があったというよりもむしろ、あらゆるものを相対化するという彼の思想的な構えは、いつの時代にも通奏低音しているように読める。

そんな若いころの彼については本編約260ページ中の前半約100ページの部分で終わっている。彼が醸成していく親族構造や神話素などの構造主義の理論については、他の入門書や彼自身の本をあたってみた方がいいだろう。

【書評】障害者界の淫獣かく語りき ホーキング青山「お笑い! バリアフリー・セックス」

お笑いとエロにはある共通点がある。それは「障害者については語るまじ」という不文律だ。 障害者は笑いやエロとは無縁の、純粋無垢な人たちなのだと思われがちだ。
だがそれは、健常者社会からの一方的な押しつけにすぎないのではないか? 本書はおそらく日本の障害者お笑い芸人第一号のホーキング青山氏が、自身のセックスライフとともに障害者の性に真正面から向き合った一冊。 『UNIVERSAL SEX』(なんというタイトル!)の文庫化だ。

頼れる兄貴的な文体でホーキング氏は、自身の初体験からナンパの仕方、奇想天外なオナニー方法(『車いすのシートにコンニャクを挟み、移動しながらするオナニー』は爆笑必至)まで、これでもかとカミングアウトしてくれる。 氏の肩書はお笑い芸人であり、収録されている内容はほとんどが「すべらない話」だといって差し支えない。特に養護学校の教諭が欲求不満で暴れ狂う生徒を“ある方法”でなだめたという箇所は必読、凄まじいとはこのことだ。

そんなホーキング氏最大のライバルは乙武洋匡。 ベストセラー『五体不満足』を皮切りに端正なマスクをひっさげメディアで華々しく活躍する彼が「陽」ならば、ホーキング氏は「陰」(淫?)である。 おまけにお互い電動車いすと“芸風”も似ているため、ホーキング氏の対抗意識も一入だ。 もっとも、後にツイッターで日夜自虐ブラックジョークをさく裂させる乙武氏を目撃するに、実は二人はそう遠くない所に位置しているようにも思うけど。

著者が本書を書いた目的は同情をさそうため、ではもちろんない。性欲は障害があろうがなかろうが関係ない。 障害者の方が、セックスに至る難易度が少しだけ高いだけだ。
著者は、この本から何かを得て、初体験ができたという読者(それは健常者障害者を問わず)を待望しており、さらに、ゆくゆくは本書そのものが存在意義を失うことをも望む。障害者が障害を気にせずにセックスを楽しむ社会――車いすの上から著者が見上げるその夢はあまりにも壮大だ。


【その後の話】
現在もホーキング氏は表舞台で多方面に活躍中であり、近年では古典芸能にも挑戦中とのことだ。
2012年にEテレで「バリバラ」が始まるなど、「障害者については語るまじ」という雰囲気がやや薄まった気配はしないでもない。
ただ一方で、書評内で「陽」と評した乙武氏に対する世間の評価は、本人の不倫報道後に大暴落。報道後はほとんど人でなしのような扱いだった。これも、背景には「障害者は笑いやエロとは無縁の、純粋無垢な人たち」だとする思い込みがあったことは言うまでもない。
一番困ったのはホーキング氏ではないだろうか。今まで「陽/陰」という境界線越しに敵視していた乙武氏が「陰」(淫?)にヒールターンしてしまった! 今さら自分がベビーターンするわけにもいかず。なかなか難儀な状況であり、乙武氏本人の次に商業的な割りを食ったのはもしかするとホーキング氏かもしれない。

【書評】水道橋博士の偏執的な情熱がまぶしい「藝人春秋2」

藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ

藝人春秋2 下 死ぬのは奴らだ

TBSの「A-Studio」では毎回最後に、司会の笑福亭鶴瓶がその回のゲストについて一人しゃべりを披露するのが通例だ。今や「A-Studio」に出演する=鶴瓶の一人しゃべりのネタになるのが芸能人のステータスになっているが、それならば、この著者に筆をとらせるのも、もはや一つの到達点と言えないだろうか。

全2巻にまたがる本作は、お笑いコンビ・浅草キッド水道橋博士による人物評伝だ。別件で話題沸騰中の週刊文春編集長からの「特命」を受けた「芸能界に潜入するルポライター」として、芸能界、政財界に生息する怪物たちの姿を活写する。今作は特に連載誌が「文春」とあって、対象によってはかなりジャーナリスト寄りで硬質な内容になっているのが、前作『藝人春秋』にはない特徴だ。

博士の文は、次から次へと飛び出す巧みなアナロジー、ナンセンスギャグ、ダジャレによって読者を「水道橋史観」ともいえる芸能界ユニバースへといざなう。専業作家も顔負けの堂に入った文体で、被写体の輪郭を切り取っていく様は見事だ。

一方で、博士自身が「過剰」な人物であることも忘れてはならない。最近一部で話題になった「オールナイトニッポン」をめぐる「殴り込み疑惑」も、誤解として決着はついたが、「博士ならしかねない」というリアリティがあった。偏執狂的な思い込みと情熱と行動力がある著者だからこそ、対象者の思わぬ側面に迫れたのだといえるだろう。例えば、石原慎太郎と冒険家・三浦雄一郎の間に生じたすれ違いとその「真相」にたどり着いたのは、著者の執念に近い固執があったからに他ならない。本書ではその後の2人の明暗を残酷なまでにくっきり描き切っている。

ときには面白すぎて「これホント?」と眉につばをつけたくなる箇所もあるが、流麗な筆致と偏執的な思い込み=情熱によって著された文を、読者の脳は「んなことの前にこれは面白い」と判断を下してしまう。信憑性よりも面白さが勝ってしまうのだ。博士は前作『藝人春秋』の中で、お笑いにおける「強い」の概念を提唱していたが、博士自身の文も立派に「強い」のだ。

これだけやっておきながら「あ、この章は手を抜いたな」というのが一つもないのだからすごい。この本全体から漂う本気度は軽くタレント本の域を超えている。


博士の文章を読んでいると、プロインタビュアー吉田豪が思い浮かぶ。
一度だけ、吉田氏が文章に起こしたある人へのインタビューを動画で見たことがある。すると何が起こったか。皮肉なことに、吉田氏が直に相手に話を聞く様よりも、吉田氏が文章化したものの方が面白かったのだ。ぼくが対象を直に見るより、吉田氏のフィルターを通して出来上がった虚像のほうがずっと面白いということだ。博士についても同じことが言えるのではないか。

万が一、ぼくが博士の知り合いだとして。そして億が一、博士が次の文章でぼくを書こうとしていたとしよう。ぼくはそれを断固拒否すると思う。もう公開してしまったといわれたら、その文章は決して読まないし、読んだ人にはなるべく会わないように生きることを決意するだろう。

なぜなら、ぼく自身が博士の書いた「ぼく」を超えられる自信など到底ないからだ。

それだけに、自身について書かれた原稿をコピーして配り歩いたという三又又三の度胸たるや。厚顔無恥もとい、博士に言わせれば「肛門無恥」の加減には頭が下がる思いである。