いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

愛の告白は必然的に時期尚早である

岡村隆史「キスしていい?」問題

最近、初主演映画のPR活動で、ナイナイの岡村隆史がいろんなバラエティ番組に出まくっている。
昨日もくりぃむしちゅー上田晋也がMCをつとめる「おしゃれイズム」に出演していた。
その中で、岡村の恋愛経験についての話になった。なかでも盛り上がったのは、彼の「キスするときは必ず『キスしていい?』と訊く」というポリシー(?)についてだ。

以前(といってもだいぶ前)、彼がまだつきあっていない一人暮らしの女性の家に夜、あがらせてもらった際のことだ。テレビを見るなどして部屋でまったり過ごした後に、さあそろそろそういう頃合いなのかなと思った彼は、おもむろにその女の子に「キスしていい?」と聞いたというのだ。この「問いかけ」に相手の女の子は、「そんなことする人だとは思ってませんでしたっ!」と断固拒否。その後、30分テレビを見ながら待って(なぜ待てば次はOKされると思ったかはわからんが)、再度頼んでもダメだったという。

このエピソードに、番組観覧に来ていたらしいその場の女性陣も「え〜」というリアクション。もちろんその大多数は、訊いた側の岡村に対する反応なのだろうと。なぜだ、なぜ訊くのだ、と。


実はこれ、ナインティナインのオールナイトニッポンでは既出のエピソードだ。
ただ、ナイナイのオールナイトというのは深夜という時間帯と、女人禁制的(といっても女性リスナーもいるのだけれど)なマッチョな雰囲気を醸しだしている特異な空間だ。一方のおしゃれイズムは、マリエに代表されるゆるふわ愛され系女子の価値観が大勢占拠する場である。
だから、こちらの価値観では岡村の行動が「優しい男」として好意的に見られのかも、という一抹の期待/不安が正直なところあったのだけれど、やはりこちらでも「キスしていい?」を訊く岡村は、「なんか変」になるのだ。

「キスしていい?」ではまだ一般化できないので「告白していい?」に問いを変換してみる

しかし、まだこの問題にピンとこない人もいるんじゃないだろうか。なぜならここでは、岡村と彼女はつきあっっていなかったのだ。恋人でもない相手にキスするというのは、いくら欧米化が進んだ我が日本国においても、まだまだマイナーな「マナー」だろう。お笑い芸人の常識では「つきあってなくても…」となるのかもしれないけれど、一般的には、というかたいていの男女にとってはそうはならない。


この問題は一般人にとってはむしろ、「告白していい?」に該当すると思うのだ。
ここで問題になっているのは、行為の同意を取り付ける問いと行為そのものの関係だ。そうすると、「キスしていい?」と「キスという行為」に対応するのは、「告白していい?」と「告白という行為」の関係になる。

告白する側が告白の前に予め「訊いておきたくなる」問い

岡村の「相手のことを考えてキスする前に「キスしていい?」と訊きたくなる」感情は、われわれ告白する側の人間にとっては「相手のことを考えて告白する前に「告白していい?」と訊きたくなる」感情と、ほぼ同種のものだろう。
そして、なぜ「キスしていい?」と訊くことが変か変ではないの見解はわかれても、さすがに「告白していい?」が変であることは、あまり意見が分かれないだろう。


いつも「告白を待つ側」だという人にはわかってもらえないかもしれないが、おそらく多くの「告白をする側」の人間は、一度や二度は思ったはずだ。「告白する前に、「告白していい?」って訊いておきたいなぁ」と。
それを訊くことは、岡村の「キスしていい?」と同様、実際に口にすることは決してできない御法度の問いなのだ。


でも、これはよく考えてみたら、「変」な話ではないか。岡村の方ではない。岡村のとった行動を変という側だ。
最近、NHK教育ではハーバード大学のサンデル教授の講義が放送されている。昨夜の第四回はちょうどジョン・ロックの話だったのだけれど、法治国家では他人に作用する行為を実行に移すには、なんでも「同意」が不可欠だ。ならば畢竟、相手にキスの同意をとりつけるための「キスしていい?」が、相手に告白する同意をとりつける「告白していい?」が、どうして滑稽に聞こえてしまうのだろう。

恋愛とは革命であり、革命とは必然的に時期尚早である

これは、恋愛が革命だからだと、僕は思うのだ。

以前、愛の告白がなぜ人に緊張を強いるのか、ということについて考えたことがある。

告白が緊張を呼ぶのは、それが双方の関係性そのものについての言及をおこなう、「メタコミュニケーション」だからだ。AくんがBさんに恋しているとします。でもそのことをBさんは知りません。その時点では、2人は単なる友人関係にあり、2人の間でなされる会話は通常のコミュニケーションである。ところがある日、恋心に苦しめられたAくんは我慢できなくなり、Bさんに告白することを決意しました。


Aくんが体育館裏でも校門でもどこでもBさんを呼び出してもらっていいのだが、そんなAくんがBさんに対して行う告白とは、一体どういう要求なのか。手をつなぎたいとか、キスしたいとか、具体的な要求はあるだろう。しかしそれを、ものすごく抽象化すれば、「Bさん、僕との関係性を『友達』から『恋人』に作新しませんか?」というお願いであり、AくんとBさんの関係性そのものについて言及する、メタコミュニケーションであることがわかる


「怖い人」が怖い理由 - 倒錯委員長の活動日誌 「怖い人」が怖い理由 - 倒錯委員長の活動日誌

愛の告白とは、二人の関係性に対するメタ言及であり、さらにその関係性を刷新/革命することを志向する言葉だ。

「無理矢理革命すればよかったのに」

ところで、件の「おしゃれイズム」では当然、岡村のこの「へたれっぷり」に対する意見が交錯したのだけれど、セレブタレント(笑)のマリエも「らしい」コメントを放っている。

「無理矢理キスすればよかったのに」

マリエのこの言葉は、パートナーがいる年月のほうがいない年月より圧倒的に多い(という印象を漂わせる)「恋愛強者」による高見からの発言、と短絡的に片付けてはいけない。実はこの言葉は、一世紀前にローザルクセンブルクが遺している言葉に匹敵するくらい、重要なことを述べているかもしれないのだ。ジジェクがその著作で書いていることを信じるならば、ローザ・ルクセンブルクがかつて、キスの箇所を「革命」に代えたようなことを、述べていたのだ。

誤謬は心理の内的条件であるというこの同じ論理は、革命のプロセスの弁証法についてローザ・ルクセンブルクが述べていることにも見出される。すなわち、エドゥアルド・ベルンシュタインにたいするルクセンブルクの反論である。ベルンシュタインは、「早まって」「時期尚早に」、すなわちいわゆる「客観的条件」が熟する前に、権力を奪取することにたいして、修正主義的な不安を抱いていた。周知の通り、社会民主主義極左派にたいするベルンシュタインの批判の核心はそこにあった――彼らはあまりに気が短く、やたら焦って、歴史的発展の論理を追い越そうとしている、と。これにたいするローザ・ルクセンブルクの答えはこうだ――最初の権力奪取は必然的に「時期尚早」である。労働者階級がその「成熟」に達するための、すなわち権力奪取にとって「適当な時期」の到来を迎えるための、ただ一つの道は、この奪取の行為に向けてみずから鍛錬・育成することである。この育成を達成するための唯一の可能な方法は、まさに「時期尚早な」な企てである……。たんに「適当な時期」を待っていたのでは、生きてそれを見ることはできない。なぜなら革命的な力(主体)が成熟するための主観的条件がみたされないかぎり、この「適当な時期」はやってこないのだ。すなわち「適当な時期」は一連の「時期尚早な」企てが失敗した後ではじめてやってくるのである。したがって、「時期尚早な」権力奪取に反対することは、権力奪取というもの全般に反対することに他ならない。ロベスピエールの有名な文句を繰り返せば、修正主義者が欲しているものは「革命なき革命」なのだ。

スラヴォイ・ジジェクイデオロギーの崇高な対象』93-94pp

イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

革命は、それが「時期尚早」であるということを、本質的用件のひとつとして数えている、と彼女は言う。これは、速やかに遂行されなければ体制側にバレてしまい失敗に終わる、という革命家の戦略上の問題を指しているわけではない。

そうではなくて、時期尚早で暴力的になされなければ、それは革命ではないということをいっているわけだ。よって、先のこの国での「権力奪取」は、革命とは一般的には呼ばれない。あれは単なる政権交代だった。そう、革命はつねに無理矢理やらなければならない。その「無理矢理」性が、前提条件なのだから。

告白は必ず“暴力的”だ

さて、話を恋愛の方に戻そう。愛の告白という関係性の刷新/革命において、なぜ主体は相手への「同意」を予めとりつけてはおけないのだろう。それはやはり恋愛のそのはじまりにおいて、革命と同じく時期尚早だからなのではないか。
しかし時期尚早というのは、具体的にはどういうことか。
ここでいう時期尚早とはおそらく、告白/革命に必然的についてまわる「暴力性」の別名なのだろう。


それは例えば、相手の性愛に対して介入していくということにまつわる暴力性、あるいは相手と自分との関係性をそれ以前とは全くかけ離れたものにしてしまう、という意味での暴力性だ。


ここで原点の問いに戻ってくる。なぜ我々は「告白していいですか?」だとか、「キスしていいですか?」と訊きたくなるのか。
それは、この告白/革命の本質的な用件であるその暴力性からの忌避の身振りなのだ。言わずもがな、今から告白する相手とは、自分がこれから愛し守っていこうとしている相手である。なぜその相手に、暴力的な介入をしなければならないのか。そこで告白をする側の意志は揺らぐ。


相手への愛のベクトルが、暴力性をはらんでしまう。だからこそ「告白/キスしていいですか?」というパラドキシカルな問いを発する欲求へと、帰結する。

どんな告白も「決行」されなければ遂行されない

そろそろ「非モテ」の方々がモニタの前でプルプルし始めているかもしれないので弁明しておくと、確かに革命にも、「成功する革命」と「失敗に終わる革命」があることは確かだ。そしてそれらはたいてい、前もって「成功しそうな革命」と「失敗しそうな革命」に分類できるほどには、予想が立つ仕組みになっている。


世の中には、もうお互いに好きあっているのが十二分にはっきりした上で、事実確認的に告白を済ますというハイレベルな恋愛をしているカップルもいるのかもしれない(BAKUMANのモリタカなんてその変種かもしれない…)。

だがそれにしても、OKする準備があったとしても、告白を受ける側はいつ告白されるかわかっていない(わかっているとしたら、「告白していい?」を訊いているはずだ)。その点において告白される側にとっては「突然きた」という意味で暴力的であるし、告白する側は告白において「はい、よろこんで」とOKをもらえるまで、それは「決行」なされないのだ。

そのように、上手くいきそうであろうとなかろうと告白/革命の道には、もはや後戻りのできないように以前と以後を絶対的に分かつ、「命がけの飛躍」の必要とされる断崖しか用意されていないのだ。


それとはまた別に、全くダメもとの告白/革命というのも、あるかもしれない。
しかし、告白/革命の失敗をおそれてできない人も含めて、彼らは次のことを忘れている。それは「告白したことで、相手が今度から自分のことを気にかけてくれるかもしれない」という可能性だ。まさに革命が労働者の「成熟」を待っていられないように、告白/革命においても、告白された側が、事後的に「告白をOKする人間」として「成熟」する可能性は、なきにしもあらずなのだ。
革命の場合は、失敗すれば首謀者は即断頭台だろう。
でも告白はちがう。一度ダメでも、もしかすると、次に言ったときは、結果が変わるかもしれない。

告白する側ができるのはその暴力性を「受け入れる」ということのみ

ということで、そこで告白できないでモジモジしているあなたに、僕が声をかけられることがあるとすれば、それは告白/革命のもつ暴力性をも、受け入れろということ、これにつきる。


だが、この告白/革命の暴力性とは、レイプと同じではないか、ということになってしまうのではないか。とくに、先に述べた告白が行為遂行的に事態をかえるもしれないという論理でいうと、じゃあ無理矢理レイプした「事後性」において、相手が自分のことを好きになったのならば、レイプの罪は不問に付される、ということなのだろうか。

もちろんそれは否。レイプはレイプとして罪は問われるべきだろう。


しかし、問題の本質はそこではない。そうではなくて、告白/革命という暴力的介入による事後性によって生まれたそれが恋愛ならば、それとレイプとを分かつ境界線はいったいあるのだろうか。それは同じ行為ということになるのじゃないかという、これだ。

全ての恋愛はレイプであるとは、さすがに僕は言えない。ここで言い得るのは、恋愛はレイプではない。しかし、全くの断絶を間に横たえているということも同様に言い切れない、ということだ。恋愛はレイプではない。でも両者は本当に細くそして長い線によって、かすかにつながっている、ということなのだと思う。