いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】「早すぎる断行」と「手続き主義」のはざまで 〜ゼロ・ダーク・サーティ 85点〜

アメリカ同時多発テロの首謀者ウサーマ・ビン・ラーディンの捕獲、殺害にかけたCIA職員らの姿を描くキャサリン・ビグローの最新作。

ここ最近の「実話もの」で舞台が中東といえば、どうしてもベン・アフレック『アルゴ』を連想してしまう。実際、星条旗を背景としたパキスタンの民衆の抗議デモなどは、『アルゴ』かと見紛うようなシーンだった。

けれどこの2作が決定的にちがうのは、『アルゴ』が国家機密としてはすでに解禁され約30年前がたった「確定した歴史的事実」であるのに対し、このビン・ラーディン殺害は、誰もが知っているようにほんのつい最近あった「生きた現実」なのである。それだけに、公開前からアメリカでは様々な場外乱闘があったというが、作り手側も単なるフィクションを映像化する以上に、精神的負担が大きかったんじゃないだろうか。

興味深いのは、本作が「実話もの」であるにもかかわらず、エンタテイメント性が高いということだ。キャサリン・ビグローは前作『ハート・ロッカー』でもイラク戦争をとり上げている。フィクションであるはずのあの作品が様々な論議を生んだのは、多声的で様々な解釈ができる難解さがあるからだ。誰もが胸を撫で下ろすことができるようには終わらないし、すっきりとしない(すっきりとすればいいというわけでもないが)。
それに対して、今作『ゼロ・ダーク・サーティ』は単純明快な「ビン・ラーディンを殺せ」というミッションがあるだけに、難しい映画のようでいて、実は多くの人に開かれているような印象を受けた。ビン・ラーディンは死んだ、というおそらく多くの人にとって「ネタバレ」された事実であっても手に汗にぎれるのは、この映画そのものに力があるからにちがいない。


映画は、9.11にまつわるある悲痛な「肉声たち」から始まる。遺族からは無許可で使用したことで抗議を受けているそうだがそれはさておき、自分がもし字幕でこれら肉声を「読む」のでなく、直に耳で「聞く」ことができたら、と悔やまれるような場面だった。

ストーリーは、9.11への関与、あるいはビン・ラーディンに通じている疑いのある者を、かたっぱしから拷問していくところから始まる。拷問描写が公開前から話題になっていたが、話題になってハードルが上がっていたためか、どうも期待ほどでもなかった。ただそんな中でも、単純な痛みや苦しみを味あわせる種類のそれよりも、想像を絶する恐怖を思い起こさせる「箱」の拷問だけは、観ていて一番ゾワっとした。

主人公のマヤは、一度掴みかけたビン・ラーディンへ続く糸をたぐり寄せる最中に絶たれ、さらに仲間を殺されるという絶望に突き落とされる。ここで起きた事件も事実だという。他にも、作戦が決行された住居の作りなど、観劇したあとに調べれば調べるほど事実に忠実に作られていることがわかる。


場外乱闘と先述したように、本作には製作前から反オバマ陣営からクレームがついたという話がある。けれど、実際に観てみると親オバマ的な要素はほとんどない。
むしろ、オバマ的なもの、もっと正確に記せばブッシュ政権以後にきた反動に対する疑問をはっきりと突きつける箇所さえある。これはぜひ劇場で確認してもらいたいところだが、たとえば、劇中で唯一、本物のオバマが映るシーンがある。真っ当のように聞こえる言葉も、文脈ちがえばここまで受け取り方が変わるという、ある意味興味深い仕掛けがなされている。

そのような描写もあるが、この映画が本質的にオバマ政権に肩入れしていない価値中立的な映画だと思ったのは、ビン・ラーディン発見から「決行」にかけてのプロセスを観たときだ。


現実の事実を簡単に確認しておくと、アメリカはイラク戦争を開戦する際、イラクが「大量破壊兵器」が保持しているということを大義に掲げていた。しかし、結果的にそれはイラクに存在しなかったのである。「拷問」という捜査手法にも通じるところだが、証拠が揃わなくても叩けば吐くだろうという「早すぎる断行」が、ここには共通してみてとれる。
その反動として、オバマ政権以後は「手続き主義」への回帰がなされた(ように、映画ではみてとれる)。

しかし、ストーリーでは後半、この「手続き主義」がビン・ラーディン捕獲にとって大きな足かせになっていることが露呈する。

大量破壊兵器」が「ビン・ラーディン」に置き換わった、といえばわかりやすいだろう。「手続き主義」にのっとれば、ビン・ラーディンがある場所にいるということが100%確実でなければ、作戦は決断はできない。しかしもし、100%彼がいるなんてことが立証されなかったら、どうだろう? 絶対にある場所にビン・ラーディンがいることが確証できるなんて、インターホンを押して「ビン・ラーディンさんいらっしゃいますかぁ?」と聞くほかにないのである。

以前、革命とはつねに早すぎる、ということを書いたことがある。

愛の告白は必然的に時期尚早である - 倒錯委員長の活動日誌

正統な手続きを1から10まですべて踏んでいては、それはもはや革命などではない。
ときには「早すぎる断行」が、可能性の暗部を飛び越える「命がけの飛躍」が必要な時もある。この映画は、「早すぎる断行」とその「手続き主義」のディレンマを描いているように思えた。


ゼロ・ダーク・サーティ――軍事用語でいう「午前0時30分」を意味する――から先のクライマックスの約30分は、まるで別の映画が突然はじまったかのような、不思議な感覚に陥る。それまでの劇映画のリアリティとは少し水準がちがい、いうならば途中からドキュメンタリ映画のような雰囲気になっていく。そのミッションの先に、マヤが目にしたものは……。


観ていて、疑問に思う箇所は納得いかない箇所もあるのだけれど、そこをちくいち自分の脳が「でも実際こうだったんだろうな」という推測で勝手に補っていってしまう。そのように、観ている側のぼくの無意識な「アシスト」はあるのかもしれないけれど、世紀の捜索を見事映画化した堂々たる作品だと断言したい。