いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

剥き出しのセンスについて

先週知人の女の子(ここでは彼女の名前の頭文字をとってCちゃんとしておこう)からおもしろい話を聞いた。
その子はSEとして、日々あくせくと労働に勤しんでいる(ん?おまえもさっさと働け??)。そんな彼女の会社は最近、あるソフトウェアの完成を間近にひかえていた。その段階になり、ページデザインの色が問題となった。デフォルトの色はグリーンなのだそうだが、今の時代はユーザーも欲張りで、その一色だけでは飽きられてしまう。当然何色か選べるようにしようということになった。


そこで、Cちゃんの先輩社員の人が、グリーン以外の選択肢となる五色を作ることを任されたというのだ。彼は彼なりの“センス”でその五色をセレクトしたのだろうが、上の人が見るより前に見せてもらったCちゃんは内心、「これはないわ」と思ったのだそうだ。そう感じたそれもまた彼女の「センス」ではあるものの、とにかく感想は「デフォルト以外、選択肢なくね?」なのであった。
しかしそんなことはもちろん口に出さずにいたら、もともとその仕事を頼んでいた上司の人も、その五色を見てソッコー「ボツ」を突きつけた。Cちゃんはとりあえず自分の“センス”が間違っていなかったことに安堵と少なからぬ喜びを感じていたものの、「じゃあかわり、Cちゃんやっといて」といわれたことに戦々恐々としていた。


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この話の何がおもしろいのかというと、Cちゃん曰くその色をボツにされた先輩、いわば彼のセンスを否定されたというその先輩の人というのが「すごくヘコんでいた」というのだ。ヘコんだその本人にはすごく申し訳ないが、このエピソードはものすごく僕にとっておもしろかった。


この話のミソは、その配色という作業がプログラムを組むことが仕事の彼にとっては本来のタスクではない、つまり「専門外の仕事」であったということ。それだけに、彼が選んだ配色とはプロとしてではない、混じりっけなく彼自身の生得的なセンスから導かれた色となり、それが否定されたからこそ、「すごくヘコんでいた」のだと思うのだ。僕はこの彼の否定された配色のようなものを、「剥き出しのセンス」と命名したい。


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ふつう逆だろ、と思われがちだ。例えばこの件を、会社がちゃんとした技術なり資格なりを持った外部のウェブデザイナーに依頼して、そのウェブデザイナーの試案を「ボツ」にして突き返していたとすれば、どうだろう。デザインを生業にしているのだから、その人はそれを否定されたらヘコむのだろうか。
おそらく、ウェブデザイナーの彼/彼女も、たいしてヘコまなかったのではないか。いや、ヘコむことはヘコむのかもしれないが、それはあくまで「ビジネスとして」なのだ。
デザインというのもまったきの一個人の「センス」ではないか、という疑問があるかもしれない。

しかし、どこの世界もそうであるが、プロになるということは「滅私」の側面がある。ここでいう「私」というのはその人のセンスであり、いわく言い難い個性の部分だ。プロとして食っていくということは、そのセンスを金銭化することであり、金銭化のためには、出来るだけ多くの消費者に通じるようにそのセンスはいわば「社会化」を遂げなければならない。技術や資格の取得課程とは、いわばその社会化の課程にほかならない。その点、現代アートとデザインは、一時期限りなく接近したように思うのだけれど、最終的に一線をかしているのは、やはりその社会化するかどうかの一点にあると思う。


もちろんそこには“プロになる以前の彼/彼女”のセンスも多分に含まれてはいるだろうけれど、それらは技術や資格を取得した時点で、少なからずの社会化、悪く言えば標準化がなされている。したがって、そのセンスから出力されたデザインへの外部からの評価にも、その技術や資格といったものが、むしろ心理的な鎧となる。


一方の「剥き出しのセンス」とは裸体である。どんな鎧にもくるまれていない、それだけに、ささいなことで傷つけられるのだ。今回、Cちゃんの先輩社員に起こった悲劇とはそういった技術や資格という鎧によって守られていない、彼自身の私的なセンスをダイレクトに「ボツ」にされたことによると思うのだ。


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この「剥き出しのセンス」を傷つけられることなく、どうやって守っていくのか。答えは簡単、“「剥き出しのセンスを問われる場」を避ける”、これしかない。

しかし考えてみたら、世の中“「剥き出しのセンス」を問われる場”だらけではないか。
例えば議論の煮詰まった会議のあいま。小腹のすいた上司が部下に千円札をわたしながら頼む、「下のコンビニでなんかつまめるもの、買ってきて!!」。一見それはたやすい小間使いのようだ。でもどうだろう。こういうときにこそ、その人本来の何にも守られていない「剥き出しのセンス」が、その千円札と変わって顕在化する。僕も何度かある、言うとかわいそうだから言わないが、「センスねー」というお菓子や飲み物を買ってくる輩は、確かにいるのである。


他にもまだまだある。私見ではネット社会なんかこの“「剥き出しのセンス」を問われる場”だらけである。例えばブログのトップページ、それにアバター。それらは私的な空間なだけに、私的で社会化されていない「剥き出しのセンス」が、気づかないうちに問われていく。デフォルトの画面にしておけばいいではないかという話なのだけれど、殊にTwitterではなぜだかデフォルトのあの小鳥のイラストのままにしている人は限りなく少ない。これからどんどん「剥き出しのセンス」と問われる場は拡張されていきそうだ。


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それから、「剥き出しのセンス」を問われる典型的な行為は商品名やチーム名などつける、そう、「命名」である。最近の新党ブームにおいて、我々の目を引きつけるのは、濁流のごとくうねりながら再編を繰り返す政界そのもの、ではけっしてなく、おそらくはその政治家先生方の「剥き出しのセンス」によって命名されたのであろう、その妙ちきりんな党名である。

提案なのだけれど、いっそ公募でもいいんじゃないだろうか。党名の公募。そうすれば、もし命名した人の愛着からの一票は確実に確保できるし、なによりも、僕らの投票用紙を「剥き出しのセンス」で汚されていくのは文字通り、「誰も得しない」はずだ。