人間、いくら注意しても公衆の面前で恥ずかしい思いをすることがあるわけです。
例えばぼくなどはよく改札でTSUTAYAのカード、反対にTSUTAYAでSuicaを出してしまったりすることがあるのですが、そういうとき恥ずかしいわけです。
こうしたとき、体内からわきあがる狂おしいほどの羞恥心に胸をかきむしられ苦しいのですが、この28年間、無防備にその苦痛に耐えて来たわけではありません。ぼくなりに対処法があるわけで。
それは「第三者の身になってみる」ということです。
どういうことかというと、自分に起きた当該の「恥ずかしい事態」を他人に起きたものと仮想するわけです。
そうするとき「あれ? これってたしかに笑えることだけど、そこまで恥ずかしがることでもなくね?」と思えてくる。
そうなのです、世の中の「恥ずかしい事態」とは、たいてい当事者と第三者の間で「恥ずかしさ」についてギャップがある。とくに、ぼくのような自意識過剰ヤローに多いのですが、自分の身に起きたらオオゴトなのに、他人の身に起きたらオオゴトではないように感じられるのです。
これはつまり、自分の中で、他人への注目度にくらべ自分への他人の注目度を不当に大きく見積もっているからこそ起きる錯誤です。
だから、そういう人は一度、起きたことを別の誰かの身に起きたと置き換えてみましょう。そうすると、少しは恥ずかしさが緩和されます。
またこれは、怒られてヘコんだときにも応用可能です。大人になってだいぶ減ったけれど、それでもノー怒られでフィニッシュというわけでなく、たまには人から怒られる機会があるわけです。
それでヘコむ。そのとき、なぜヘコんだのかと、ヘコんだ要素を分解していきますと、「怒られてるところを他人に見られた」というのがわりかし多いのです。これに関して、おい、自分のいたらなさに対してヘコめよという批判は全くごもっともなのですが、これはぼくの脳内で勝手に起きることなのでしかたない話なのであります。
ということで(どういうことだ?)、恥ずかしいときと同様に第三者の立場からみればたいしたことないわけです。
ですから、恥ずかしいとき、怒られてヘコんだときはこう考えてみては、
おい、他人はおまえにそこまで関心ねーぞ。