いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

市場主義につきつける2つの「限界」〜マイケル・サンデル『それをお金で買いますか――市場主義の限界』書評〜

前著『これからの「正義」の話をしよう』で、一時は「お茶の間でおなじみ」にまで定着したサンデル氏だが、今回は待望の新刊。原題は『What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets 』。

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

目次
序章――市場と道徳
第1章 行列に割り込む
第2章 インセンティブ
第3章 いかにして市場は道徳を締め出すか
第4章 生と死を扱う市場
第5章 命名権
謝辞
原注

タイトルである程度予想できるが、本書のテーマは市場主義批判であり、その議論は前著のとくに「第4章 雇われ助っ人――市場と倫理」の延長線上にある。
前著かそれ以上に具体的な事例を題材にしながら議論を展開しているため、今回もとても読みやすい。文体はあれほど軽くないが、スティーヴン・D・レヴィット『ヤバい経済学』を彷彿とさせる――と思っていたら実際にとりあげられていた。



副題に「市場主義の限界」とあるが、この本は「お金で買えないものはない」という思想に2つの「限界」をつきつける。
その1:「お金で買えないものはない」→「いやいや、お金で買えないものもあるでしょ」
たとえばぼくらはお金で友だちを買えない。買おうとすれば、むしろ友だちは減っていくだろう。Twitterのフォロアーを増やしますというビジネスを見かけてぼくらがバカにしたくなるのは、お金を払って増やしたって何も意味がないことに直観的に気づいているからだ。おなじように名誉だってお金では買えない。あなたが稲葉の記念球を手に入れても、あなたが2000本安打を打ったことにはならないし、たぶん誰もそうは思ってくれないだろう。このことについては、3章でとりあげられている「贈り物」や、5章でとりあげられる命名権の議論がおもしろい。

本書が市場主義につきつける「限界」の2つ目。
その2:「お金で買えないものはない」→「いちおうお金で買えるけどそれが市場化したらやばいものってあるよね」
こちらが本書のキモといっていいだろう。この世の中にはいちおう商品化されているけど、商品化されることでかえってお金では測ることのできない価値――本書で言うところの「道徳」や「非市場的規範」を著しく貶めてしまうことになる「商品」がある。いわゆる「行きすぎた市場主義」というやつだ。
その典型的な例といえるのが、第4章でふれるバイアティカル事業だ。詳しい議論は本書を手に取って見てもらいたいが、余命いくばくもない患者から保険証券を買い取り、彼が死んだときに出る保険金を受け取って利益を回収する形の投資だ。この投資では保険料を払わなければならないため、患者が生きのびれば生きのびるほど損をする。逆に言えば、「ある特定の人物ができるだけ早く死ぬことを願う」というビジネスなのだ。その他にもその年に死にそうな有名人を賭けるデスプール(死亡賭博)などもとりあげられる。これらは、「いちおうお金で買えるけどそれが市場化したらやばいもの」といえるだろう。



このように市場主義のもとでは、なんでもお金で買えることになる。このことにぼくらは抗うことができるのだろうか。
読みながら、ロバート・デ・ニーロの『ミッドナイト・ラン』を思い出した。デ・ニーロ演じる賞金稼ぎが、保釈屋に10万ドルの成功報酬で雇われて証人を捕まえる。だが彼はその証人の命を狙うマフィアから、100万ドルで引き渡すよう取引を持ちかけられる。ここで市場原理主義者なら最初の契約を反故にし、さっさとマフィアに証人を売り渡すだろう。しかし彼はそうしなかった(もっともクライマックスで彼にはある“ご褒美”が用意されていたが、この時点ではそのことを知らない)。
――なぜ彼はマフィアに証人を売らなかったのか。物語の興をそぐのでくわしくは書かないが、そこには彼ならではの理由があった。言い換えればそこに「彼らしさ」があり、彼はその「彼らしさ」を貫くという形で、市場主義に抗った。そしてその瞬間、彼の「彼らしさ」は「お金では買えないもの」にまで昇華したわけだ。
ここには、サンデル氏が前著でも触れた、カント的な「自由」が存在する。

 人間の行動を決めるのは先天的な性質か後天的な性質かは、よく議論されるテーマだ。(中略)カントにすれば、このような議論は的外れだ。生物学的に決定されていようと、社会的に条件づけされていようと、そのような行動は完全には自由とはいえない。カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。

p.143

カントにおいては、自由気ままに生きることが「自由」なのではない。インセンティブによって行動するのは、自分の行動規範の基準が外部にあるのだから、他律的な生き方でしかない。カントのいう自由とは、自律――ここでいうなら「自分らしく」あることだ。



本書の議論は評価したいが、その一方で日本社会にそのまま接続するには少々無理があるとも感じた。アメリカと日本では少し事情がちがうからだ。
例えば、ウォルマートが本人に黙って従業員に生命保険をかけ、その人が亡くなったときに出る保険金をそれまでかかった「教育費」としてまるまる懐に収めていた話(ひでぇ話だ)が紹介されている(186pから192pあたり)。しかしそんなことを日本でしでかせば、激烈な批判にあうことが目に見えており、過剰なコンプライアンスに縛られる日本の私企業がそんなビジネスに手を出すことは少し考えにくい。もちろん日本にも就労問題はあるが、ここで議論する「金で買えないものはない」という市場原理主義とまっさきに結びついているものではない。また、コンサートのダフ屋についても、ネット転売を防ぐために入場口で購入者と来場者が一致しているかを確かめているという話も聞く。

つまり日本では、アメリカほどいたるところにまで市場原理主義は徹底されていない。ネットでも、悪質なビジネス手法がとりざたされればすぐに批判に遭い、やがては潰えていく。これは日本社会のもつ自浄効果として誇るべきことだ。


それより、日本という文脈で問題にするべきなのは、そのイノベーションの「悪質さ」がたいして吟味されてないまま叩かれていることもしばしばあるということだ。

ここで注意すべきなのは、本書で取り上げられているような意味での「道徳」「非市場的規範」といったものは、一般的に日本の「世間」が審級になっている「常識」「評判」といったものとは別物だということだ。道徳にはある程度恒常性があるが、常識というのはしばしば書き換えられる。そして、日本には「見慣れたもの」や「おなじみのもの」には評価が甘い一方で、「見慣れないもの」「うさんくさいもの」は「悪」と決めつける不文律が、半ば常識と化してしまっている。例えばこいつなんて相当うさんくさいが、「うさんくさい」だけで批判していては新しいものなんて生まれるわけがない。「うさんくさい」ということは、そこに何か今までにない価値が眠っている可能性だってある。どちらにせよ、注意深く観察してその内実を見なければならない。
ぼくらは、社会を変える(かもしれない)イノベーションに出会ったとき、そこでついつい批判的な態度をとってしまう。でもその批判的な態度が、道徳的観点からのシグナルなのか、それともいままでの常識を破っていることに対するシグナル(端的にいえばアレルギー反応)にすぎないのか、自己の内心に手を当てて考えるべきだろう。


市場主義のよいところを一つだけあげるとすれば、それが非常に民主的だということだ。あなたがよいと思ってお金を出すなら、それはそのビジネスを信認する「投票」となる。「票」を入れないことで悪質なビジネスだって駆逐できる。そう考えれば、市場主義も悪いことばかりではない。