石原さとみ、剛力彩芽と、大物女優のスキャンダルが相次いで話題になっている。
どちらの相手も、彼女らと同じ芸能人ではなかったため(とはいっても、“一般男性”と評するのは極めて難しいほどのVIP)、SNS界隈では「何食ったら剛力彩芽とお知り合いになれるんだ」「前世でどんな徳を積んだら石原さとみと旅行できるんだ」という阿鼻叫喚が巻き起こっている。
しかし、野暮なのを百も承知でいうと、「〇〇をしたら××と付き合える」というタラレ陥っている我々小市民の分際では、芸能界のトップスターと付き合うなんておそらく最初から無理だったのだろう。
何より、スケールが違いすぎるのだ。この記事を読んで愕然としたよ。
デカい。あんたデカすぎるよ、前澤さん。
こんな人がはたして、「剛力とデートしたいから〇〇しよう」なんて考えて行動するだろうか。そんなマインドセットで動いてたら、こんな4DXで迫ってくるようなスケール感は出ないはずだ。
おそらくであるが、彼には常にやりたいことがあるのだろう(鼻をほじるとかそういうのでなく、もっとめちゃくちゃでかいこと)。
夢を抱くことすら困難な時代、彼はやってみたい夢があふれ出てくる才能と、それをすぐにやる機動力を持ち合わせた。
夢に理由などない。登山家に例えるなら「そこに山があるから」。
その強大で苦難に満ちた行程で、ふと目に留まった、荒野に咲く美しい一凛の花。それこそが彼にとっての剛力彩芽だったのではないか。「君、きれいだね。俺についてこないかい?」、そう言って彼はその花を大事そうにリュックにはさむと、まだ先の方に米粒のようにしか見えない山頂付近を仰ぎ、また一歩苦難に立ち向かうのではないか(いや、ほぼ100%筆者の想像ですよこれは)。
言い方を変えれば「石原さとみを、剛力彩芽を目指して登ってくる登山家」に、彼女たちはおそらく振り向かない。むしろ、「私なんて気にも留めずにただただ大きな夢に向けて駆け上げっている」からこそ、彼女たちは彼らに振り向いたのではないか、と思うのである。
それと同じようなことが、「ワナビー」にも言える。
ぼくが属しているのがウェブメディア界隈だからなのか、最近、周辺の若者たちが「〇端慎太郎みたいになりたい」「〇あちゅうみたいになりたい」と言っているのをよく耳にする(不思議と「前澤さんみたいになりたい」という人はまだ出てこない。これから増えるのだろうか)。
もちろん、「ワナビー」は誰もが一度は通る道である。それ自体はしかたないことだ。
ぼく自身15年ぐらい前は「奥田民生みたいになりたいなあ」と思っていたら、そこから約10年後に『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール 』というマンガが出てきて、「俺以外にも思ってるやつっているんだ…」と呆然としたことはあるがそれはともかく、そうなるのは仕方がないことで、青春の一時期に罹患する季節性の病である。
では、なぜ「ワナビー」がダサい、俗物的だと思われるのだろう。
おそらくそれも、「石原、剛力と付き合うにはどうしたらいいか」と同じように「◯◯になりたいから××をする」という打算的な逆算の思考のためだ。
本人たちと知り合いでないし聞いたこともないが、きっと田◯さんもは◯ちゅうさんも、いまの「田端◯太郎」、「はあ◯ゅう」となるまでには、さまざまな経験をしたはずである。楽しいことも楽しくないこともあっただろう。
しかし、それらは別に「今の田端慎◯郎」になりたかったから、「今のはあち◯う」になりたかったからしたわけではないだろう。
結果論として「今」が形作られたのであって、彼らが「今のあのイケてる感じ」になったのはたまたまなはずだ。最初からそこまで予想できていたら、それこそラプラスの悪魔である。
「ワナビー」がダサいのは、彼らの現在の上部だけーー例えば、転職するだけで話題になったり、ネットラジオでエロい話をしたりナンパ男にインタビューしたり、ちょいちょい舌禍で炎上して直火で炙られる程度はしてるけどなんとなく充実してる風景だけを見て、なりたいと思っているからだ。
それが「ワナビー」のダサさ、俗物性の所以だ。
「ワナビー」が「◯◯みたいになりたい」と言って、有料サロンに入ったり、ロフトプラスワンのイベントを最前列にかじりつきで見たって、そこに◯◯になるためのヒントは、多分ない。ありそうに見えて、それをしたところで◯◯にはなれない。
なぜなら、たぶん「田端慎太◯」にとっても、「はあちゅ◯」にとっても、「今の姿」は「今まで」から線でつながっているそれもまた「プロセス」でしかないからだ。
そういう意味で、「ワナビー」がダサいのは、「◯◯みたいになりたい」と言ってるくせして、対象の◯◯について、本質的なことは何一つわかっていないということも一因なのかもしれない。