いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

悪女・桃井かおり大暴れ! 映画『疑惑』が“胸糞悪いけど爽快”な理由

疑惑

 おもしろいサスペンス映画を募るまとめサイトで出会った本作『疑惑』。偶然アマゾンプライム・ビデオに入っているので観たが、当たりだった。

 

 

 桃井かおりが演じる、性悪なホステス球磨子が大暴れする映画だ。

 球磨子は、富山のお人好しなお金持ちの再婚相手だったが、突然夫が謎の死を遂げ、彼女に嫌疑がかけられる。球磨子は夫の死をほとんど悲しみもせず、振り込まれるはずの巨額の保険金が目当てというまさに真性のクズ女。マエ(前科)もある。

 メディアは、そんな球磨子の未亡人としての「非常識」な態度への批判一色。開廷前からまるで彼女の有罪が確定したかのようだ。

 

 名うての弁護士も弁護を断るこの困難な裁判に、颯爽と現れたのが岩下志麻演じる弁護士の律子だ。

 がらっぱちな球磨子と、エリート気質が鼻に付く律子は、当然のようにぶつかりながらも、敗訴濃厚な裁判を戦っていく。

 

 観ていると、本作の焦点は「球磨子が本当に殺したかどうか」ではないことに気づく。いや、それももちろん焦点ではあるが、この映画はそれ以上に「疑わしきは罰せず」という近代の法原理と、「疑わしきは“罰せよ”」という世論の非合理的な処罰感情の対決である。

 後者を代表するのがマスメディアで、世論の球磨子に対する処罰感情をあおり、彼女の有罪を信じて疑わない。それを象徴するのが、地元紙の記者を演じる柄本明だ。彼はまるで正義の鉄槌を下すかのごとく、裏付けもすることなく最初から球磨子を犯人であるかのように記事を書き立てる。

 

 柄本のほかに、おかしいと感じたらコロッと意見を変える素直さがかわいいジゴロ役の鹿賀丈史や、やたら偉そうだけど結局何もしなかった丹波哲朗など、出演者それぞれが輝いているのだが、やはりメインどころの桃井かおり岩下志麻、この2人がひときわ輝いている。

 

 法廷劇としてはありふれたストーリー展開であるが、本作の白眉はクライマックスにある。

 

 律子の粘り強い調査と弁論により、晴れて球磨子は無罪を勝ち取る。

 しかし本作が説得的なのは、桃井かおり演じる球磨子が、「正真正銘のクズだった」ということだ。

 

 無罪が確定後、球磨子と律子はささやかながら祝杯をあげるが、そこでも球磨子の面の皮の厚さが露見し、やはり2人は反りが合わない。球磨子の人生と律子の人生が交わったのは、冤罪事件というただ一点のみだったのだ。そしてラストカットは、東京に戻る便の中でひとり不敵に笑う球磨子。

 

 球磨子はクズで最低の人間だけれど、今回の事件については無実だった。それだけなのだ。


 そのことが、本作を名作へと押し上げている。

 もしも球磨子が無罪を勝ち取ったあとに律子と喜びの抱擁をしたり、仲良くなったり、あるいは感謝の気持ちを素直に伝えようものならば、観客は鼻じらむだけだろう。そしてなによりも「彼女は無罪で、やはり善人だった」という結末は、本作のメッセージに逆行する

 

 球磨子はやはりクズの悪女だった。そのことが、映画のメッセージ性を際立たせている。悪人であろうとなんであろうと、該当の案件について真っ当なプロセスを経て裁かれるべき――本作『疑惑』はそのことを「爽快な胸糞悪さ」とともに教えてくれる法廷劇だ。

疑惑

疑惑

 

 

父子の終わりなき薬物依存との戦いを描く『ビューティフル・ボーイ』の壮絶

ビューティフル・ボーイ (字幕版)


 マーシーこと田代まさしがまたも逮捕された。しみけんとこの人は本当にもう…という感じだが、SNS上にも「信じていたのに…」「またか…」という失望や落胆の声が上がるとともに、薬物依存の恐るべき「逃れがたさ」を思い知ったという声が多く寄せられていた。


 ただ、個人的にはこうした感情を数日前に味わっていた。映画『ビューティフル・ボーイ』を鑑賞していたからだ。今をときめくティモシー・シャラメスティーヴ・カレルが父子役で共演する本作は、父親の目線から、息子の薬物依存に向き合う姿を描く。


 言ってしまえば、映画は同じ展開の繰り返しである。ニックが薬物に溺れる、デヴィッドが更生施設などなんらかの手立てを打つ、ニックは依存から立ち直ったか、に思えたが…やはりまた薬物に手を出してしまう。この展開が幾度となく繰り返される。


 もちろん、そのループ構造そのものが、依存症との対決の実情なのだろう。終盤でカレル演じるデヴィッドが、「疲れた」とこぼすシーンは、それまでのプロセスを目撃していた観客の誰も否定できないだろう。


 脇を固める演者もいい。デヴィッドの再婚相手カレンを演じたモーラ・ティアニー。彼女にも印象的なシーンがある。薬を買う金欲しさにデヴィッドの家に侵入したニックとその彼女。2人の車を自身の車で追いかけていたカレンだが、運転しながら涙を流し、しまいには車を止めて追うのをやめてしまう。どんなに距離を縮めて、ニックを捕まえたとしても、「距離」は縮まらない。彼女の涙はそのことを悟った涙なのだろう。


 映画は、いまのデヴィッドとニックの姿を映すとともに、依存症と無縁だった頃の素直でかわいい少年ニックとデヴィッドの姿をカットバックで描く。そうすることで、父がどれだけ息子を愛していたかと、現在のニックの姿がどれだけ彼にとって悲痛なものかを観客に追体験させる。ちなみに、タイトルの『ビューティフル・ボーイ』はジョン・レノンの楽曲であり、幼いニックを流すためにデヴィッドが歌う子守唄だ。


 終盤には、娘を薬物依存で亡くしたという女性が登場し、「娘が死ぬもっと前から、私は喪に服していました」と告白する。もしかしたら、デヴィッドも同じような心持ちだったのかもしれない。かつての、彼が「すべて」と評した息子の姿はもうそこにない。


 本人のみならず、家族をも苦労させる薬物依存との戦い、徒労を本作は教えてくれる。子どもを持つ親ならより身につまされるものかもしれない。

イマジネーションの暴力! 『ロボット2.0』は観た方がいいかもしれない

ロボット

 

 インド映画というと「ド派手な装飾にミュージカル!」というイメージで、近年では『バーフバリ』シリーズが日本でもヒットしたが、本作『ロボット2.0』は、ロボットが活躍するバリバリVFXのバリバリSFである。

 しかし、「ああ、インド人がハリウッド映画パクって、今度はロボット映画ですか」などとたかをくくていたら損をするだろう。『ロボット2.0』は、アメリカ映画や邦画のVFXによって飼いならされたわれわれ日本人の想像力を熱々のナンで往復ビンタしてくるような衝撃を残す、奇妙キテレツな光景の連続、想像力の暴力が繰り広げられるのだ。

 

 異常に長いタイトルロールや、ストーリーのとっかかりになるスマホが奪われていくシーンの異常な長さなど、冒頭から早くも「異常」の宝庫なのだが、「この映画、やっぱり変だ!」と思わされるのは、なんといっても「巨大な鳥」のシーンだろう。「なぜ“それ”で鳥を作った?」という疑問符が頭の中に何個も点灯するのだが、そんなことはお構いなしに映画は進む。
 
 もっとも、この鳥の表象には、意外とゴツメの政治的メッセージ性が隠されているのだが…。


 
 凶暴なイマジネーションと、想像を超える展開のフルコンボセットで観客がぐったりしたところで、最後にお待ちかねのミュージカルシーン。これがまた豪華絢爛なのだが、本編といっさい関係ねえ! というツッコミどころがまた素晴らしい。

 タイトルから察するとおり続編なのだが、前作は予習しなくていいから(というか予習する意味があまりない!)、とりあえず劇場に行ってほしい、とりあえず衝撃を受けてほしい、という案件である。

 アメリカと日本の映画を隔てている壁が「資金力」の1枚だとすれば、インドと日本の間にはもう1枚、「想像力」というものがあることを痛感させられる一作である。

 

<<俺の好きなお勧めインド映画>>

きっと、うまくいく(字幕版)
 

『おっさんずラブ』新章スタート…ブレなさに安心した!

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 昨年大ヒットし、今年は映画版も公開された『おっさんずラブ』の新章、『おっさんずラブ‐in the sky‐』が昨日、ついにスタートした。
 
 田中圭吉田鋼太郎らが乙女チックに胸キュンするおっさん同士の恋愛を描いたラブコメディーだというのはもはや説明不要だろうが、前シリーズからキャストは田中と吉田のみ続投で、そのほかのキャストを一新。舞台も不動産会社から、航空会社に移す。まったく新しい世界で、あたらしい恋愛を描くのが特徴で、いわば「リブート」と捉えて差し支えないだろう。

 変化には期待とともに失望も伴うもの。なかでも、前作で田中(春田創一)の相手役で、吉田(武蔵部長)の恋のライバルであった林遣都(牧凌太)の不在を嘆く声が大きかった。牧の誕生日である放送日前日の11月1日に、SNSで祝福の声があがったのが、根強い人気を物語っているだろう。

 愛が深いゆえに、憎しみも深くなるということなのか。一部の牧ファンがSNSで今回の新章に対して「アンチ」となっている姿も目撃された。かなしいことである。ただ、林=牧が加わる前にも実は『おっさんずラブ』は単発ドラマで制作・放送され、そのときも、連続ドラマから引き継がれたキャストは田中と吉田のコンビだけだった。つまり、林=牧が外されたのは、何か思惑があったとは考えにくいのだが…。

 
 そうした不安含みの新章が昨夜スタートしたが…、蓋を開けてみると拍子抜けするほど安心した!キャストは代わりはしても、前作(ドラマ版ファースト・シーズン)での「キモ」となった部分はまったくブレていなかったからだ。
 
 前作で、われわれ視聴者を熱狂させたのは何かというと、「いい人たちの真っ直ぐな愛」が描かれたということだ。
 
 このことがどれだけ難しいというのは、なかなか理解されにくい。昼を描くために夜を描くように、男を描くために女を描くように、本来、「真実の愛」を描くためには、どうしてもそこに「偽りの愛」を描きたくもの。その方が簡単であり、分かりやすいからだ。

 また、下心や裏切りがあることで、物語が盛り上がる。それはわかる。

 それに対して、『おっさんずラブ』は、「偽りの愛」に頼ることなく、「真実の愛」のみを丹念に描き、なおかつエンタメ性を兼ね備えた作品に仕上がった。「いい人たちの真実の愛」しか描かれない。だから、視聴者はその世界に安心して浸ることができるのだ。
 
 詳しくは書かないが、第1話を見た限りは、「いい人たちの真実の愛」がまた観られる! という期待感が湧いてくる。

 

 次に忘れてはならないのは、この荒唐無稽といえる「おっさん同士の胸キュン恋愛」の世界を成り立たせているのは、出演陣の上質な演技にほかならないということ。キャスティングという点でも、本作はブレを感じさせない。
 
 今回、田中、吉田と共にメインを張るのは、千葉雄大と戸次重幸だ。千葉は、どちらかといえばイケメン系の林遣都とはまた別のタイプの美形で、神の采配ではないかというかわいさを持っており演技も安定している。一方、大泉洋擁するTEAM NACSの戸次は言わずもがな。彼らの演技という土台が安定しているがゆえに、視聴者は安心して真実の愛の物語に入っていける。
 
 第1話についてもう少し具体的に述べると、劇場版のお祭り気分を引きずっているというか、「肩に力入ってる? 大丈夫?」と心配になる部分もなくはないが、これは、期待値が高い続編への「覚悟」と受け取っておくべきだろう。
 
 まずまずのテイクオフをしたと思われる本作。これからどこへ連れて行ってくれるかが楽しみである。

『バチェラー』シーズン3、史上最も胸糞悪い!…けど一番おもしろかった!

バチェラー・ジャパン シーズン3 予告編

 

 Amazonプライム・ビデオ で配信されている『バチェラー・ジャパン』シーズン3の“結末”が物議を醸している…というか、「胸糞悪すぎる!」とクソミソに叩かれている。

 「胸糞悪い」という感情は分かるのだが、一方でシーズン1、2ともに観たぼくに言わせれば、「これまでで最も面白かった!」ということにもなる。

 『バチェラー・ジャパン』を知らない人に一言説明しておくと、裕福で外見の整ったバチェラー(独身男性の意)が、結婚相手の候補となる20数名の女性とデートやパーティを重ねていく恋愛リアリティーショーだ。
 バチェラーから各回の最後にバラを渡された女性だけが次のステージへ進める。バチェラーの結婚前提の彼女となるたった一つの席をめぐって競い合う。
 ちなみに、日本オリジナルの企画ではなく、米国で初めて作られ、日本と同じように各国で企画は制作・放送されているようだ。
 
 
 シーズン3となった今回、バチェラーを務めるのは神戸出身、貿易業を営む友永真也クンだった。この友永クンがいろいろとアレなのが、次第に分かっていくのだが…。
 
 ここからは、なぜ今回の同番組が、前2回に比べて面白かったか、その理由を解説したい。
 
 

<<以下、ここからはネタバレ全開で書いていく>>

 
 

史上かつてないほど分かりやすい構図

 まずなにより、対立の構図が分かりやすい。
 3シーズン目となった今回、ラストの2人まで生き残ったのは、山梨のぶどう農家出身の岩間恵さんと、大阪出身で北新地で10年に渡ってホステスをしていた水田あゆみさん。
 
 
 農家とホステス。これが分かりやすさの理由…ではない。番組上で、2人がファイナルまでに歩んできた道のりが全く違うのだ。

 すべては、友永クンが岩間さんに初回で“ガチ恋”してしまったことにはじまる。岩間さんがハマられやすいのはよく分かる。派手すぎず、地味すぎず、いかにもな日本的な美人であり、いわゆる「親に紹介したくなる女性」なのだ。
 
 
 
 
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 友永クン、初回で見初めたときから、岩間さんにがっつり心を掴まれたよう。それ以来、岩間さんだけは、少なくとも視聴者からすれば、たいしてバチェラーにアピっていないにもかかわらず、まるでエスカレーター式で、スイスイと次の回に上がっていった。
 そもそも岩間さんは、全く友永クンに惚れていないフシがあった。態度がはっきりしない彼女に、終盤では取り乱したバチェラーの無様な姿がどんどん放送される。おいおい、お前バチェラーだろ!? 追いかけられる側だろ!?

 一方、水田さんは当初、数多くの女性出演者の中では「ONE OF THEM」でしかなかった。
 
 
 
 
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 しかし、水商売10年のキャリアで培ってきた人心掌握術というのか、接客術で、回を重ねるごとにその存在感は増していき、スタジオでモニタリングしているタレントの面々からの評価もうなぎのぼり。
 
 水田さんが岩間さんに容姿で劣っていた、ということは断じてない。そうではなく、ただ単に「バチェラーの“タイプ”ではなかった」、それだけである。しかし「タイプである/ない」の間にどれだけの差があるかは、分かる人には分かることだ。
 
 ここにおいて、まるでシード校の強豪(ヒール)と、ノーシードで1回戦から這い上がってきた公立校(ビーフェイス)、そんな対照性ができあがった。昨年の夏の甲子園金足農業大阪桐蔭の決勝戦でも盛り上がったではないか。同じようなものである。  

 加えて、この戦いは、岩間さんに対してのバチェラー友永クンの一目惚れ、もしくは性衝動=自然と、水田さんの培ったホステスの接客の技術=人間の作り出した人工物の対決でもある。

 前2回の『バチェラー・ジャパン』でも、最後の2人に絞られたら盛り上がったものだが、今回ほど明確な対抗軸はなく、「これって結局、好みの問題だよね?」としかならなかった。

 今回は金足農業VS大阪桐蔭」「ヒールVSベビーフェイス」「自然VS技術」という分かりやすい構図があるからこそ、俄然視聴者は「水田がんばれ! 打倒岩間!」で盛り上がれたのである。

友永真也という「掟破り男」

 今回のおもしろさを語る上で、やはりバチェラー本人を欠かすことはできない。いろんな意味ですっとこどっこいな(詳細はぜひ、本編を堪能しながら知ってほしい)彼だが、悔しいかな、彼なしではこかまで面白くなかっただろう。
 
 彼がこれまでのシリーズにない掟破りをいくつかしているが、最大にして最悪な掟破りは実は本編収録後に起きていた。

 ついに岩間さんから「恋愛感情はない」とまで言われ、泣いちゃった友永クン。ここで一度は心がポッキリ折れたようで、岩間さんを諦めたかのように水田さんを選んだのだった。

 ここで視聴者は一度は大歓喜したのである。

 …ところが、その後、事態は180度変わる。

 一度は水田さんと結婚を前提に交際することになった友永クンだが、なんとその後、私的に岩間さんと連絡を取り、さらに直接会っていた! さらにさらに水田さんにたった1ヵ月で別れを切り出し、すぐ直後にまんまと岩間さんとの交際にこぎつけたのだ!

 このことが、今回特別に設けられた「エピローグ」として配信されると、友永クンのクソっぷり+しれっと告白を受け入れた岩間さん(本編ではあんなに冷淡だったのに!)への視聴者のヘイトが爆発。これこそが今シーズンの「胸糞悪さ」の根源にある。

 一方、ぼく個人はというと、この結末を知ったとき、「悲しい」という感情に襲われた。
 
 自然(性衝動)に人間(理性、気遣い)が一度は勝ちかけたが、勝てなかった、そのことが悲しいのだ。我々は性衝動を未だに制御できない。これは大げさではなく人類の敗北なのだ。
 
 一度は結ばれ、すぐにフラれてしまった水田さん。バチェラーを馬乗りでボコボコにしてもいいぐらいの権利はあるのだが、スタジオで再会した元カレ(交際期間約1ヵ月!)を軽くなじりながらも、笑顔で送り出すその「グッドルーザー」っぷり。人間力、圧勝っ!
 
 ただ、これは映画でいうところのいわゆる「大どんでん返し」で、おもしろいに決まっているのである。
 「あのときはこう言ったけど、実はこうで…」そんな言い訳通るかよ!という話もごもっともであるけれど、それが現実。恋愛リアリティショーがリアルになった瞬間である。
 

所詮は赤の他人の色恋

 そんなこんなで、シリーズ史上かつてない視聴者にまったく祝福されないカップル」爆誕した。
 
 予期できたことだが、回を追うごとに、友永クンや岩間さんをはじめとする出演者について、ネット上での「プライベートさらし」が始まっている。その中には、この結末について怒りにかられた視聴者によるものもあることだろう。
 まったく感心できないことである。舞台裏をほじくり返すなんて、野暮ではないか。 
 
 裏切りや約束の反故なんて、自由恋愛にはいくらでもある。所詮は赤の他人の色恋ごとであり、第三者があーだこーだいうことではないのだ。
 
 ちょっと頭のネジが飛んだバチェラー友永クンは面白かったし、最後までただただひたすらにヒール役を全うした岩間さんも見事。責任を取って友永クンを引き取った、という立場とも言える。
 
 「胸糞悪いけどおもしろい」ーーだから、今回の『バチェラー・ジャパン』シーズン3をぼくに拍手を送るのだ。

『空の青さを知る人よ』は「いい映画」だけど僕にとって“他人事”だった


映画『空の青さを知る人よ』予告【10月11日(金)公開】

 

「空の青さを知る人よ」オリジナルサウンドトラック

 

 公開中の『空の青さを知る人よ』というアニメ映画を観た。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』で知られる製作陣=超平和バスターズによる最新映画である。
 
 主人公は、秩父の山奥に暮らすベース大好きな女子高生、相生あおい。両親が交通事故死したあと、女手一つで育ててくれた姉あかねとの二人暮らし。そんなあかねとあおいの前に、大物歌手のバックミュージシャンとして金室慎之介が舞い戻ってくる。慎之介はあおいが音楽を始めたきっかけで、憧れの存在。高校卒業後に音楽での成功を夢見て上京していた。そんなときに、あおいの前に、高校時代の姿そのままのもう一人の慎之助=“しんの”が現れ…。


 安定したアニメーションに、実写と見紛うような美しい背景、秩父という舞台は同じものの『あの花』とは全然違うのにきちんと『あの花』風味が効いた感動を呼ぶストーリー。いい映画である。

 

 乱暴に一言でまとめるなら、「あの日見た夢にきちんと“ケジメ”つけてます?」という話である。

 その結末は、ナイーブと言えるほどまっすぐである。実写だと少し出来すぎで辟易としてくるほどまとまっているのだが、アニメということがその荒唐無稽さをカバーしている。鑑賞後にすがすがしい気分になれる一作である。
 
 一方で、ぼくがそんな風に一定の距離をとって「すがすがしい気分になれる」「いい映画」だと言い切れるのは、たぶんこの映画はぼくにとって「他人事」だからなのだろう。 

 逆に、ぼくや慎之介と同世代の30代前半ぐらいの人の中には、この映画を観て胸をかきむしられるような思いを抱く人がいると思う。

 彼らとぼくのちがいはなにか。それは夢をみている中高生か、そうでない中高生だったかのちがいだ。

 中高生の頃のぼくは、ばく然と東京に出たいという希望はあったものの、はっきりとしたやりたいことがあったわけではない。東京のキー局のテレビ局員になりたいと考えた記憶の断片はあるが、それはおそらくテレビマンという職業が「高収入だから」とか「カッコいい」「女性にモテそう」という打算的なもので、お世辞にも「夢」と呼べるような代物ではなかった。
 
 つまりぼくには、“しんの”のように十何年後かにバケてでる夢がなかったのである。だからこそぼくにとってこの映画はただの「いい映画」なのだ。

 

 

 強い光ほど、濃い影を引き寄せる。

 この映画を見ているうちに、強い夢とか希望を持って社会に出ていった人ほど、それが叶えられなかったときに苦しめられるという側面もあるんじゃないか、ということを考えたのである。この映画を作った人たちはたぶんそんなことを伝えたかったわけではないだろうが。


 「まあ、とりあえず井戸から出てみれば?」。あの頃、「空の青さ」にただただ惹かれるだけで、井戸からはい出たあとのことなんて何も考えていない、ぼくのような中高生がそこにいたら、そう声をかけてあげたいものである。

あまりに悲しい『ジョーカー』が描く「笑い」の排他性と均一性

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 あまりにも理不尽な目にあい、怒りに震えたとき、悲しみにくれたとき、ふと一瞬我に返る。自分がこれだけ激情の嵐に飲み込まれているにも関わらず、外界はいたって平穏だ。これは、自分が狂っているのか? 社会が狂っているのか? いや、そのどちらともなのか?

 
 『ハングオーバー!』シリーズのトッド・フィリップス監督が手掛けた『ジョーカー』は、そんな話である。

 

 バットマンの宿敵ジョーカーはこれまで何度も実写化された。中でもひときわ異彩を放っているのは、クリストファー・ノーラン監督作『ダークナイト』(2008)に登場するヒース・レジャー演じるジョーカーだ。
 ヒース版ジョーカーはそのおどろおどろしいビジュアルもさることながら、最もかっこよかったのは「口が避けた理由」である。劇中、ジョーカーは3度、相手を代えてその「理由」を語るのだが、3回とも全く話が変わっている。つまり、すべてが真っ赤な嘘なのだ。


 これが意味しているのは、ヒース版ジョーカーが“どこからやってきたのか分からない”ということだ。彼がなぜそうなってしまったのか。そして何が目的だったのか。それが分からないことの怖さが、『ダークナイト』のカルト的人気の大きな要因の一つだ。

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 そういう意味で、今作『ジョーカー』はとても野心的である。何しろ全編において「なぜジョーカーはジョーカーになったのか」の物語をたっぷりの悲しみと、怒りと、せつなさをもってして描くのだ。


 この映画について「危険」という謳い文句が流れていて、安易にそういう安っぽい言葉を使うのはどうかと思うが、使いたい気持ちはよく分かる。この映画、あまりにもジョーカーへの共感・同情の気持ちが抑えがたいのである。日本人は「苦節○年」という言葉に弱いが、本作はいわば演歌だ。こんなコブシの入ったジョーカー、今までいたのだろうか。

 

 ホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックは売れないコメディアン。普段は路上でパーティーピエロとして細々と生計を立てる。オンボロアパートに帰れば病の母親を看病する、孤独な優しい青年だ。
 しかし、不運もかさなり、彼と社会をつないでいたか細い糸はぷつり、ぷつりと一つずつちぎれていってしまう…。

 

 アーサーはコメディアンもどきであるが、そんな彼の孤独感を際立たせているのは、実は彼が志している「笑い」なのである。本作はさすがジョーカーが主役の映画とだけあって、「笑い」というもののもっている画一的で排他的な恐ろしい側面を効果的に使っている。
 
 アーサーは神経を損傷しているために、自分の意志と関わりなく、緊張してくると勝手に大笑いをはじめてしまう。みんなが押し黙っているバスの中でも、自分が立っているコメディのステージ上でも、それは頻発する。


 笑いはアンビバレントな行為である。本来、笑うことはストレス発散になりうる。人と一緒にいて、楽しい会話だと笑いもするだろう。本来それはポジティブな反応だ。


 一方で、集団でいるとき、我々は一人で勝手に笑えない。一斉に笑うことは許されるが、他の人が黙っているところで一人だけ大笑いをしていたら、頭のおかしな人だと思われてしまう。
 また、集団になって一部もしくは一人の人間を「笑い者」にするときの「笑い」は、強烈な排他性を帯びている。
 こうした笑いの画一的で排他的な側面は、本作でも中盤のある2つのシーンで効果的に使われ、アーサーの孤独を描いている。社会から見放され、自分の居場所がないことを悟ったとき、アーサーの中でジョーカーはついに目覚めるのである。
 
 ちなみに、映画ではここで、ジョーカーに対して「君と同じように社会から冷遇されても、一生懸命に生きている人がいる」という旨の説教を垂れるキャラクターが登場する。その直後にジョーカーにあっさり射殺される彼だが、この手の説教は社会への不満がきっかけで事件が起きるたびに出てくる繰り言だ。

 こうした言葉が繰り返されるたびに思うのは「じゃあ、その、今まで“冷遇されても、一生懸命に生きている人”たちが一斉に怒りをぶちまけて行動を始めたらどうするの?」ということ。しょせんそうした説教は、社会の問題に正面から向き合おうとせず、個人に我慢を強いる言葉にしかすぎない。

 

 閑話休題

 さきほど、ヒース版ジョーカーと大きく違う点について書いた。本作はここまで述べてきたように「ジョーカーがどこからやってきたのか?」を描いた作品であり、その点ではたしかにヒース版ジョーカーとは全く別物である。

 ただ一方で、「ジョーカーがこれからどこに行くのか? 何をしでかすか?」についてはさっぱり分からない。その点では、実はヒース版ジョーカーと同様なのだ。

 

 誰かがツイッター上で「(本作の)ジョーカーは革命家だ」みたいなことを書いて、随分おめでたいと思った。
 彼を苦しめたのは経済的な問題だけではない。孤独であり、分かりあえる友達や恋人もいなかった。同じ貧困にあげぐ人々からも、アーサーは疎まれていたのだ。
 今まで冷遇していたやつが、事態が変わってついてくるようになったからといって、ジョーカーはそんな彼らの言うことを聞いて動くだろうか? 彼は狂ったのだ。そんなの考えられない。
 あらゆる怒りと不満をために溜め込んで覚醒してしまった彼が、つぎにどんな凶行を起こすのか。それが分からないことが、もっとも怖いではないか。誰が狙われるかは分からない。彼を狂わせたのは社会全体。誰が狙われてもおかしくないのだ。

 

 幸か不幸か、トッド・フィリップスは本作を単発映画として企画しており、続編はないと現在のところ語っている。
 あまりにも切なく、あまりにも悲しい空前絶後のジョーカーの“その先”は、ぼくら観客が夢想するしかないのかもしれない。