いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

自己啓発本・ビジネス本を嫌悪 “読書家”のめんどくさいプライドの正体

バカになるほど、本を読め! (PHP文庫)

もう削除されてしまったが、ツイッター上で一昨日ぐらいから、とあるブックリストが炎上していた。

「苦しい時に助けてくれたのはいつも本でした」と大上段に構えておきながら、蓋を開けてみたら、ブックオフで大量に投げ売りされているようないわゆる「ビジネス本」や「自己啓発本」の類が100冊並べられており、"読書家"の界隈から「そっちかよ!」とツッコミが飛んでいた。

 

しかし、よく考えてみればこれは理不尽なことである。ネットメディアの台頭、娯楽の多様化、書店の激減、「本」をめぐる環境がますます厳しくなっていく中、いざこうして「こういう本を読もう」と呼びかけたところで、ディスられるのである。先ほど確認すると、選評者はツイッターを休止してしまった。かわいそうに。お前らのせいだぞ。

 

“読書家”が自己啓発本やビジネス本を嫌悪する理由はいくつかある。

一つには、科学的に根拠の乏しいオカルトめいた理論があるだろう。フィクションや個人的な意見の集積のエッセイならば看過できるが、「今日から使えます!」という触れ込みでトンデモ理論が流通するのは、たしかに少し危険な気もする。それは分かる。

 

ただ、そうした科学的な確証の問題とは別次元で、“読書家”にとって「本」と「本の形をした本ならざるもの」を区別する、もっと濃くて太い線引きがある。それは、本が目的になっているか手段になっているか、だ。

自己啓発本やビジネス本といったものを“読書家”が嫌う理由は、「手段になっている本」だからにほかならない。彼らがハウツー本を嫌い、ハウツー本を指して「本を読む」と評する人が嫌いな理由は、そこにある。

 

もっとも、小説や絵本などのフィクションならともかく、"読書家"が仲間にしたがる「新書」や「学術書」「教科書」だって知識が学識を得る「ため」の本であり、一見、「手段の本」に当てはまりそうだが、そうではない。

「読書家」の好みをさらに突き詰めてみると、その知識や学識が「何かの手段」でないことが重要なのだ。

 

誰が、全体主義国家のプロパガンダの変遷についての知識を生活習慣に取り入れるだろう。

 

誰がトラクターの歴史を会社の同僚との雑談で披露するだろう、

 

現代が能力主義の皮を被った“生まれ”の支配する時代である、という話が、友達とお茶するときのネタになるだろうか。フルーツサンドがまずくなるだけだろ。

 

“読書家”にとって重要なのは、今日明日とすぐに活用できるような「即効性のある情報」でないこと。そういう情報ではあってはならないのだ。彼らはそうした本を避けて、さらには小馬鹿にすることにある種のプライドさえもっていると言っていい。「ためにならない、それを読むこと自体が目的になる(そう思うしかない)本」こそが、いわゆる“読書家”に求められているわけだ。

 

そう書いていると、どうも“読書家”にとっての「本」というのは、酒やタバコのようなもののような気がしてきた。それ自体、生きるためになんにもためにはならない(さらにいえば生きる上で有害かもしれない)、嗜んでいることそれ自体が楽しい、至福のときをつくる、さらにそれを嗜んでいるときの自分が誇れる、そういう類の嗜好品なのだ。そんな彼らからしたら、自己啓発本やビジネス本のたぐいは、健康食品みたいなものなのかもしれない。即効性を求め過ぎなのだ。

しかし、繰り返しになるが本は本である。その中で、恣意的に自己啓発本とビジネス本だけを仲間外れにし、バカにしているのは彼らの歪んだこだわりだ。さらに言えば、「こいつら(自己啓発本やビジネス本を読む人)と同じだと思われたくない」という気持ちも作用したのだろうと思われる。はっきりと同族嫌悪である。

 

と、ここまで書いておいて、ではお前はどうなのだと問いかけられたら、私ははっきりと「ため」の本が嫌いなわけで、件のブックリストに対しても嫌悪を向ける側の人間だ。

そんなぼくからしたら、こんなめんどくさい「読書家」たちがお騒がせしております。ご容赦くださいというしかないのである。