いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

プロレス素人がドハマり『有田と週刊プロレスと』ここがスゴい!

No.001 NY移住の綾部にグサリ!有田、長州モノマネ炸裂!!

 

 

 いよいよ今夜0時から、『有田と週刊プロレスと』ファイナルシーズンの配信がスタートする。

 ぼくはプロレス素人なのだが、この番組にはすっかりハマってしまった。今回はプロレス素人の目線で、『有田と週刊プロレスと』の面白さを紹介しよう。ずっと書いておきたかったことだが、このタイミングしかないと、この勢いに乗せて書いてしまう。

 

■ 有田の知識量がスゴい

 番組のコンセプトは単純明快。ベースボールマガジン社から出版されている雑誌「週刊プロレス」を今もなお買い続けるくりぃむしちゅー有田哲平が、毎回約25分、ランダムで配られる「週プロ」一冊を語り倒す、それだけである。

 有田は毎回、茶封筒から出すその瞬間まで、その回の週プロが何年の何号かを知らない。そこから全て、アドリブで語りは始まる。大学でいうなら、授業する講師も毎回シラバスが分からないのである。大学でもこんな過酷な所業はないだろう。

 30分しゃべっているのはほとんど有田である。ゲストもいるが、プロレス玄人の回はあまりなく、ほとんど「聞き役」。そんな狂気のハンデ戦でも番組が成立するのは、有田の博覧強記といえるプロレス知識があるからにほかならない。

 

■ 有田のストーリーテリングがすごい

 有田が一冊の「週プロ」の内容を把握し、そこから引き出される知識量、記憶力にも驚かされるが、なによりもその物語構成力に舌を巻く。

 知識量なら、もしかしたら有田レベルのプロレスオタクは少なくないのかもしれない。

 有田がすごいのは、その知識量を瞬時に的確に配置し、1つのサーガにしていくストーリーテリング能力である。

 ときに語りは、その回の本題からまるで関係のないように思える小川から始まり、それがあれよあれよというまに、壮大な大河へと見事合流する。

 白眉だったのは、高田延彦(伸彦)vsヒクソン・グレイシー戦の語り(シーズン2、NO19参照)。高田の話なのに、なぜか話は師匠猪木が掲げた新日の哲学「キングオブスポーツ」から始まるのだが、その流れるような話の持って行き方はぜひ体感してもらいたい。これにはゲスト、プロレスファンのビビる大木も脱帽していた。 

 

No.001

■ "いつもと違う有田"が見られる

 また、普段の有田とは違うことも付け加えなければならない。ゲストで来たノブコブ吉村をして放送大学のような雰囲気」と言わしめたように、番組中のトークにボケやガヤは挟まれるものの、基本的に全編“まじめ”である。そしてそのまじめさのトーンを決めているのは、有田本人のスタンスでもある。

 かつて相方・上田晋也とやっていた『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』や、現在も『しゃべくり007』などで見せる本筋をどんどん逸脱していこうとするトリックスター的なポジションとは一線を画する、MCでありストーリーテラーであり、ときにツッコミにも回る有田の別の顔がそこにはある。

 

■ "プロレスの何がプロレスファンを惹きつけるのか”を教えてくれる

 「プロレスなんてショーじゃないか」は、プロレス素人がとる冷笑的ポーズのもはや定番である。

 K-1、総合、ボクシングに親和性があったぼくも、この番組を観るまではどちらかと言うとそのスタンスに近かった。

 しかし一方で、「ではなぜ、ほとんどガチでないことが公然の秘密となった今もなお、プロレスファンはプロレスに惹かれるのか」という問いには興味があった。

 この番組を観れば、その問いに少なくともいくつかの仮説が立てられる。以下、僭越ながら、プロレス素人のぼくが感じる「プロレスの魅力」の3つである。

  1. ショー=見世物としての魅力

     前段で記したようにプロレスがショーであったとしよう。しかし、ショーであろうと、ショーはショーである以上、「見世物」として洗練されなければならない。まず、卓越したショーとしての魅力があることは言う前もない。

     さらに、ショーであるとはどういうことかを突き詰めればそれは、ときに技の出し手ではなく受け手、試合の勝者ではなく敗者にも見せ場がある、ということである。

     印象的だったのは、有田がある回のミニコーナーで、あるプロレス技を解説した際、「この技の欠点は、受け手の顔が隠れてしまうこと」という旨の指摘していた。この視点こそが、「ショーであるプロレス」のどこをファンが注目しているかのヒントが隠されていると言えるだろう。

  2. 舞台裏に隠された"ガチ”

     さらに、プロレスがショーだとしても、その舞台裏はガチである可能性が高い。プロレスでなくても、ドラマや映画で考えてもらいたい。劇中でどんなに仲がよい役だったとしても、カットがかかれば口も聞きかないような間柄だってあるだろう。

     たとえリングの上での出来事がショーだとしても、その舞台裏には、本気のドラマが隠されている。現に、この番組での有田の語りは、試合展開と同等かそれ以上に、その試合が成立するに至るまでに繰り広げられた生々しい人間ドラマ=舞台裏に割かれる。それを「ガチ」といわずとしてなんと言うだろう。

  3. 解釈できる“余白”

     エピソード3まで視聴して分かってきたことが一つある。それは、プロレスを楽しむというのは、プロレスを解釈し、語ることと同義であることだ。

     その証拠の一つに、この番組が愚直に貫くことが一つある。それは、あくまでも「週刊プロレス」に依拠しているということ。やろうと思えば、新日本プロレステレビ朝日日本テレビに映像を借りることだってできたはず。
     しかしこの番組はあくまで、「週刊プロレス」のみに依拠し、ビジュアル的な情報は「週プロ」に掲載された画像のみだ。ここまでの3シーズンで、動く絵は一切使われてない(ぼく調べ)。番組がその多くを依存するのは、実は何を隠そう有田の記憶である。そのため、番組冒頭では毎回、有田の「細かい記憶違い」をへの了承を願う文言がナレーションで読み上げられる。
     ここからはあくまでぼくの解釈であるが、番組がそうした「記録」に頼らないのは、プロレスの本質的な魅力に関係するのではないか。つまり、プロレスの魅力とは、静的な「記録」の中にではなく、人の移ろいやすい「記憶」、もっと言えば恣意的な「解釈」や「記憶違い」「思い込み」の中にあるのではないか。オーラルヒストリーとして、生き続けるのがプロレスなのだ。
     それが、K-1や総合、ボクシングなどと根本的に異なることだろう。それらは歴然とした「結果」であり、そのためにブレにくい。しかし、プロレスは解釈のエンターテイメントであり、それぞれのファンに「解釈」がある。そのため、いかがわしいし、うさんくさい。しかし、そのいかがわしさ、うさんくささ自体が魅力がプロレスの魅力なのではないだろうか。

倉持明日香がかわいい!

 番組の魅力についてに話を戻そう。

 何よりも重要なことだが、この番組初回から今までずっとアシスタント的なポジションで出演し続けている倉持明日香がかわいいということである。

 親は元プロ野球選手だが本人はガチプ女子、という倉持。ニコニコしているただのお飾り人形ではないものの、かといって出しゃばりすぎない、という絶妙なアシスタントポジションを取り続けている。そんな倉持さんがかわいらしいのである。なんだったら番組の魅力の90%ぐらい倉持さんの魅力である。

 

 というわけで、『有田と週刊プロレスと』、アマゾンのプライム会員だという人はぜひチェックしてみてほしい、拙文で少しでも興味が湧いたという人は、加入して観てほしいものだ。

 

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