「ネット人格」なる言葉があります。いざハンドルを握ると他のドライバーに悪態をつく人のように、いざインターネットに接続すると他人に対して罵詈雑言やしょーもないことを書き込むなど、リアルとはちがった仄暗い一面が、人にはあるようです。
ここ最近、激烈な誹謗中傷を送っていた人物の素性が特定されたり、マイノリティへの差別発言が相次いだりしますが、そういうようなものも「ネット人格」の仕業と思っている人がいるかもしれません。
しかし、ぼくは、前々からこの「ネット人格」なるものに疑問があります。「人格」が変わるみたいなことがそう簡単に起こるのかどうか。
ここからは仮説ですが、ぼくは、ネットで罵詈雑言やしょーもない書き込みがあふれる原因には、ネット社会へのコミットメントする意欲の度合いがあるのではないか、と思うのです。
たとえば、SNSで人とやり取りを密にすることがある人からすれば、インターネットはこのようなイメージで描かれるかもしれません。
彼らにとってそこはサロンで、人と出会い、ときには議論を交わすこともあるでしょう。そして、彼らはネット社会を、ひいては現実社会をも、そうした言論によってよりよくしたいものだと思っています。意識が高いのです。
一方で、ネット社会にいる人間すべてが、そのようなイメージでいるわけではありません。たとえば、毎日ブラック企業でこき使われ、深夜になってへろへろになって帰宅する人。精神、肉体ともにボロボロになった彼が、パッと開いたネットに欲しているのは、おそらく精神的な「排泄」です。
出して、流して、終わり。彼らに、他の人と創造的なコミュニケーションをとろうだとか、ネット社会をよりよくしよう、あるいは社会問題をまじめに話しあおうといった意欲など、はじめからないのです。
そして、こうした人々はネット社会に対してのコミットメントが低いことになります。罵詈雑言やしょーもないことを書いてスッキリしたら、はい終わり、なのです。
あらためて並べてみますがどうでしょうか。前者と後者の人で、ここまで意識に差があるとしたら。
もちろん、トイレ派の中には、社交の場として使っている人がいるのを知っていながら、悪意をもってその場でうんこをする不届き者もいるでしょう。
また、トイレとして使っていたことに悪気がなかったとしても、非がないわけではありません。問題発言をして炎上して、痛い目にあっても同情する気は起きません。やっぱりトイレとして使っていた方が悪いのです。
ただ、仮説ではありますが、ネット社会といいましてもこれほどまでにイメージにギャップがあるとしたら、前者の人たちからしたら中々骨が折れる話だぞ、というのがいいたいのです。