いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

人はなぜ「謝ったら死ぬ病」にかかってしまうのか?


ここ最近、ネット上で「謝ったら死ぬ病」というスラングを見かけるようになった。
ネット上での言動で、どう考えても自分の側の間違えがあったことが明らかになった後でもなお、その誤りを認めず、論点をズラすなどしてのらりくらりと批判をかわし、絶対に謝らない行動のことを指す。
もういいじゃん! 謝った方が早いじゃん! というときでも、そういう人々は絶対に謝らない。そうした固くなな人々に対し、「あの人は謝ったら死んでしまうんだ。だからきっと謝ることができないんだ」という揶揄からきているものとおもわれる。
例えばこういうの。

ちきりん「富岡製糸場って“元祖ブラック企業”じゃん」 - Togetter


「あはは、勘違いしてたわごめんw そんじゃーね!」と謝っておけばむしろ人柄が出て感じよく終われそうなものを、「そもそも富岡製糸場女工たちははたして本当にエリートだったのか?」などと花見のブルーシートなみの大風呂敷を広げ始め、収集がつかなくなてしまっていく。まさにこういうの。

まるでアームロックを極められて脱臼してもなお戦い続けるグレイシー一族のようだが、ことにネット上でのそれは非常にみっともない姿である。


「謝ったら死ぬ病」は当然リアルでもみうけられる行動だと思うが、ネット上でのそれが多いように思える。
クラッシュ&ビルドによって社会、文化は作られてきたはずで、人間なのだから間違えることだって当然ある。
なのになぜ、彼らはその場かぎりのなけなしの自尊心を保つのに、そこまで必死になるのだろうか。


それについてぼくはここで、デバイスの問題ではないか? という大胆な仮説をぶち挙げたい。
具体的には、スマホという小さなデバイスが、人を「謝ったら死ぬ病」に罹患させているのではないだろうか?


マクルーハンのあまりに有名な文句「メディアはメッセージである」を引くまでもなく、デバイスはそれ自体がコミュニケーションの内容に影響を与えているというのが、メディア論の常識である。
ネットの普及によって、ぼくらは今までになく「不特定多数の顔も知らない人と、小さなデバイスを使ってコミュニケーションできる時代」を生きている。
ここで、見えない相手に反論されるというケースを考えてみると、それは「見えない相手」というより、いま自分がネットに接続しているデバイスが代理する形態をとる。
つまり、ネットの普及により現代は「人体を伴わない小さなデバイスを通して反論される時代」になっているといえる。

このことが、件の「謝ったら死ぬ病」と関連するのではないか。
つまり、自分よりはるかに小さなデバイスに対して謝るには、われわれ気高い人類という生き物のプライドは高すぎる、ということだ。


リアルでもしあなたの言動が明白な誤りを犯した場合、謝るべき相手はすぐそこにいる「人間」である。この、すぐそこにいる「人間」の圧倒的な存在感をバカにしてはいけない。相手から間違いを認めろという要求があろうがなかろうが、「謝れ」という圧倒的圧力をこちらが勝手に感じてしまう――今そこにいる人間という物体の圧力はすごいのだ。
ぼくのような小心者ならば、自分が悪くなくてもさっさと謝ってしまう(アカンがな)。


この仮説に従えば、PCからスマホへとデバイスの小型化・携帯化が進む昨今は、「ますますネットの向こうの相手に謝りにくくなる土壌」が形成されているといえる。
今この文章を読むのにあなたが使っているデバイス自体がスマホかもしれないが、スマホはとてつもなく「小さな相手」だ。あなたがもし誤りを犯した場合、そんな手のひらサイズの、落としたらすぐ壊れそうな脆くて儚い「相手」に向かって謝罪をしなければならないはめになる。
そこから受ける著しい自尊心の損傷を惜しむことで、人は「謝ったら死ぬ病」にかかるのではないだろうか。


あくまでもこれは全くの仮説であり、エビデンスもなにもない空想の域に近い。そのことは、ぼく自身の「謝ったら死ぬ病」への罹患の予防として、ここに記しておこう。