いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

早大生が剥奪された「レポートを読んでもらえる権利」

小保方氏をリーダーとする研究チームによるSTAP論文の捏造疑惑に端を発し、彼女の出身の早稲田大の理工系のコピペ文化に関する匿名の投稿が、話題になっている。

早稲田大学の理工系におけるコピペ文化について

匿名であり真偽は不明だが、いまのところこの内容を認める反応はあっても、事実誤認であるという旨の反対意見はあまりでていない。


要点をまとめると、、、

・課題が多すぎ
・学生の数に対して教官が少なすぎ
・付属校からのレベルの低い「ボンクラ学生」の流入


こうした状況から、上級生のレポートをもとにしたコピペが常態化し、教授陣も手書きという事を免罪符に黙認していた、というのだ。
1年生から4年生の卒論までどっぷりとコピペ文化につかった学生にとって「論文を書くこととコピペは表裏一体」であり、「レポートとは、コピペをすることであり、それは普通の方法である」という認識をもつことも想像に難くないと、筆者は推測している。


小保方さんまでいくとアレだが、ぼくはこうした早大生のあり方を批判できない。もし同じ環境に放り込まれていたら、同じことをしていたとしても全く疑いようがないからだ。一部に能力的に向いていない学生はいただろうが、それでも、この事態は個人の気質ではなく、教育機関としての構造的な問題という比重が大きいのではないか。正当な教育機会を奪われた学生はむしろ、"被害者"とさえいえる。


かわいそうなのは、彼らがレポート・卒論を読んでもらう権利を奪われている、ということだ。
手前味噌な話だが、ぼくの卒業した大学の課程は学生の人数が少なく、顔と名前が一致する範囲の環境だった。3年から始まるゼミも、各研究室10人程度で、擬似的な師弟関係として運営される。そうした環境だと、「この人に読まれる」という恐怖心の中でレポートを仕上げることになる。卒業論文はその最たる物で、後輩のTwitterから悲鳴があがるのが、今では卒論提出間際の風物詩である。
特定の誰かに読まれるという想定は、コピペをしづらくするし、何より論文の質への強迫的な向上心につながる。
執筆していたときは思いもしなかったが、それは立派な「教育的効果」だと、今は感じる。
もちろん、ぼくの通っていた課程でも、教授陣がどこまで学生のレポート、卒論を読み込んでいたかは定かではない。しかし、肝心なのは実際に読んでいるかどうかより、学生の側が読まれる事を想定し、苦悩しながらレポートを仕上げることの教育的効果である。
学部のレベルでは、論文のできも結果論にすぎない。そんなことよりも、鋭い読み手を想定した長文を執筆する経験自体が、尊いのだ。


何が辛いというと、「読まれるあてのない文章」を書くことである。
コピペが横行し、教授が読まないとわかっている環境下では、レポート・卒論を真面目に仕上げようとする方が、難しい。真面目な読者がほしいなら、ブログに投稿した方がまだましである。コピペするために下級生が読んでくれるという笑えないブラックジョークも先の投稿にはあるが、それは利便的な要請で眺めているだけで、その文章の学術的な価値を審査する読み手でないのは、明らかだろう。


これまではそれでも、"早稲田の学位"というインセンティブがあった。しかし今回の騒動で、その価値もどのように変動するかわからない。
小保方氏については博士号剥奪が取りざたされ、STAP細胞はその存在そのものが疑われている。コピペ文化で育った人々が、今回の一件で「自分は論文を執筆し、吟味してもらう権利を奪われたのだ」という自覚にいたったなら、この騒動のほとんど唯一にして最大の功績だろう。